邪馬台は”あまと”だった? 海女都?海人都?⇒天都となり、天の都として相応しい高千穂が天孫降臨の地と定められのではないのか?
神武東征は、日向からスタート!
しかし、それなら五ヶ瀬川河口の延岡が神武天皇のスタート地点にならなきゃおかしいでしょ!

もしも本当に宮崎県日向地方だとすると、大淀川上流 都城が高天原だった?
http://livedoor.blogcms.jp/blog/kobayakawashunichi/article/edit?id=1051753404
都城は、イスラエルの古都・エルサレムと同緯度に有るんですよね!
ソロモンの神殿を模したと思われモリヤ山山麓の諏訪大社は、エルサレムと同じ標高です!
失われた聖櫃(アーク)は、剣山にあるのか?はたして諏訪湖の湖底に眠っているのか?


藤原氏が改竄した日本の歴史!真実と偽装が複雑に入り組んでいるんでしょうね!
私としては、【都城】が邪馬台国に比定されるとユダヤ・イザヤが日本に来た証明になるのですが・・・

志倭人伝の記述では、卑弥呼の都はどう考えても海岸線の近くです!
熊本県八代=社にあったのは間違いないと思うのですが、比定の根幹をなす上陸地点が今の唐津では壱岐から近すぎて万人が納得する千里に合致しません!

壱岐には原の辻遺跡が発掘され一大國の中心部だったと比定されました!
原の辻遺跡2
船着場跡らしき遺跡も発見され・・・・・使節団は直接上陸出来たんでしょうか?

又渡一海千餘里 至末廬國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沈没取之 

末廬國は四千餘戸ですからそれなりの大きな港だっと考えられます。
唐津の名は、唐の時代以降に中国との貿易港として呼ばれたもので古名は松浦(まつら)!

残念ながら、今の唐津港以外に末廬國の候補地として挙げられる場所がありませんでした!
末廬國候補マップ
伊万里市が距離的には千里に近い様ですし、山と海が近く潜るにも適した島も多いと一番の候補地にしたいのですが浜がありませんし、東南の600里(約46km)の奴国は有明海の中!
博多湾では、今度は日田市になっちゃうし東は山中で不彌國が比定出来ない
佐世保市は明治まで鄙びた漁村に過ぎませんでしたし、松浦市も昭和の合併で誕生した新しい名前ですし、古名の”まつら”は現在の唐津市なのですから末廬國は現唐津で確定して良いと思いますね!

唐津=末盧國u
なにせ魏志倭人伝には、一大國から末廬國までの方位が記されていません!

海女発祥の地としての鐘崎を距離だけで末廬國とする説もありますが、鐘崎だったら東と書かれていたでしょうし、とても四千餘戸を有する大きな港が有ったとは思えませんね!
そもそも火の國外ですし・・・・・全員が海に潜れるほど穏やかな海岸とは思えませんから・・・

末廬國までの方位を記さない理由は2つだけ!
1、途中で2~3回方位を変えざるを得なかったので方位を記述しなかった!
2、対馬同様明らかだった
!(対馬へも方位なし 始度一海千餘里 至對馬國
いずれにしても、壱岐から唐津間で1千余里(77km以上)も掛かるそんな航海が有り得たのでしょうか?
この謎が解ければ邪馬台国論争にケリが着くのですが!
唐津を否定する人達は、総じて直線距離をもって近過ぎると断定してます。
しかし郡から
狗邪韓國まで七千餘里を海岸線に沿って記述してる事からも壱岐~唐津間も実際の航行距離だったと考えるべきです!
勝本から西の航路を取るとほぼ千里(77km)なんですね!

壱岐-唐津西航路
この航路だったと証明されれば、邪馬台国=八代で確定なんですがね~!
壱岐の勝本港からは、狭い島の間を抜ける東の航路を取るより

壱岐勝本港
西の航路を取った可能性は十分ありますし・・注目すべきは勝本港近くの赤丸の場所!
壱岐古代港跡?1
もし、昔から有ったなら天橋立のミニュチュア版?
天の橋立
天橋立は悪天候時の避難場所でかつ安心して飲める【真名井の霊水】の補給地だった所ですね!
壱岐は中継地ですから古代ならこの小さな入り江も重要な港だったのではないでしょうか?

しかし、【原の辻遺跡】まで10kmもあります!【原の辻遺跡の船着場】に直接横付したんでしょうか?
そうなるとますます、唐津との距離が近くなっちゃいます!
でも、【
原の辻遺跡】が壱岐の中心だったらもっと発展してます!その後廃墟になる筈がありません!
なぜ捨てられたんでしょうね!
港で重要なのは、古今東西水の補給です!
やはり西側のこのミニュチュア天橋立に中継港があって西の航路を使節団が使ったと思います!
近くに昔の湧水か井戸があったなら証明する事にもなるのですが・・・・・・・

私としては、この結論は喜ぶというより残念な結果だと思ってます!
邪馬台国は、阿蘇カルデラや高千穂に有った方が神々しいいですもんね!
剣山山頂付近ならなおさら・・・・・


吉野ヶ里遺跡=伊都国の傍には田手川が流れて筑後川と合流します!
伊都国から邪馬台国が用意した船に乗って・・・・・
急流じゃなければ船旅の方が速くて安全ですからね!
全工程と見做してた、水行十日 陸行一月は船なら10日、陸を歩くと1ヶ月の意味だったりして?
いきなり邪馬台国の記述になるのもこの船旅の所為なのかも?

1万2千余里を帯方郡から直線距離にして、邪馬台国を比定する試みも多くなってきました!GoogleEarthを使えば誰でも簡単に探索出来ますからね!
しかし、肝心要のスタート地点帯方郡のあった場所が確定していません!
そもそも、直線距離ならわざわざ帯方郡から海岸線を航行した距離や陸行の距離なんて記述しないでしょ!(苦笑)
狗邪韓國まで七千餘里(約540km=1里77m)ですが、帯方郡を北朝鮮の沙里院やソウル近郊が候補に上がってますけれど、逆算すると、スタート地点は韓国の米軍基地辺りになります!
帯方郡?
山東半島とも至近距離なのですが・・・・・・

さ~ここから直線距離で東南に1万2千余里=924km(1里77m)以上を計ってみて下さい!
邪馬台国は東南の大海の中に有り!(大爆笑)
直線距離で邪馬台国を探索するのは、意味ないと思いますが、以前の私みたいに皆ご勝手な解釈してますからね!(苦笑)

日本神話をシュリーマンみたいに解いて、日本のトロイ・邪馬台国を発掘するの人は現れるのでしょうか?
ホメロスと違って、日本書紀は日本の歴史を改竄してると思いますね!
天皇家の歴史は、イザヤ来訪以来の歴史!

天皇家のスタート地点、日向が本当なら、エルサレムと同じ緯度にある都城が【ユダヤから失われた聖櫃を携えて日本に来たイザヤの基点】である筈で、邪馬台国も八代ではなく日向を流れる大淀川上流の都城だったらと思っていたのですが・・・・
魏志倭人伝を読む限りでは、残念ながら都城が邪馬台国では無いようです!

イザヤが最初に目指したのは、エルサレムと同じ緯度だった筈で・・・・・
次がエルサレムと同じ標高の諏訪だったのか?
諏訪と都城の中間が剣山で御輿・神輿の担ぎ上げの原点だし・・・・・神輿はイザヤ以来綿々と秘匿された失われた聖櫃(アーク)を真似たものなのでしょう!

どうやら神武東征はイザヤの末裔が聖櫃と共に東遷した伝説であり、卑弥呼の時代よりずっと前の出来事だったのかも!
この伝説とヤマト東遷が重ね合わされて出来上がったのが、古事記であり日本書紀だったりしてね!
日本書紀にも神武天皇と長脛彦は同じ天孫系だって書いてるし・・・・・
藤原家の始祖・中臣の鎌足も朝鮮に残っていたユダヤ系渡来人だったのかも・・・・
歴史を改竄する為に、蘇我氏を焼き討ちしたりして・・・・・・

とにもかくにも、日本書紀の記述は何処までが真実なのか・・・・古事記との相違点で炙り出すしか方法は無い様で・・・・・・
いつの日か、タイムマシンが発明されて、真実が明らかになるのかもね!