素晴らしきかな日本人 by 小早川俊一

御覧戴いてありがとうございます。2010年3月著名人・CM以外のブロガーを締め出した”イザ・ブログ”からあちこちテスト投稿後、過去のイザ・ブログ原稿と一緒にライブドア・ブログに移行しました。名も無きブロガーの悲哀ですね(笑)2013年は20年毎に行われる、お伊勢さまの第62回式年遷宮!これからの20年は弱者優先だった”米の座”から"働かない者食うべからず"の”金の座”に”ご遷移”されましたので[才覚次第で大金持ちになれる]チャンスに溢れる激動の弱肉強食の時代となる筈です! 人類史上[誰でも何でも平等]なんて国家が繁栄した事はなく、官庁.学校.企業も解雇も出来ず努力もしない低レベルの輩が大手を振ってのさばってる日本に明るい未来はあるのでしょうか?もっと競争原理を容認し”ジャパン・ドリーム”が実現する社会にしてほしいものです!

邪馬台国

④【Lost Child Live In Japan From BC660 】神道(物部)VS 仏教(蘇我)日本発の宗教戦争【丁未の乱】は何故起きた?

仏教って日本初偶像崇拝宗教なんだよね!
神道は神格化した神(八百万)を祭っているので人型を祭るのは後世から!
ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も偶像崇拝は禁止されてます!
本来はキリスト教も偶像崇拝は禁止の筈が‥‥
教会でキリスト像やマリヤ像が拝まれる様になっちゃったけど!

禁止されていた偶像崇拝がかくも日本を席巻した原因とは何だったんでしょうね?
中臣氏も祭祀を司る氏族=物部氏系とみるべきなのかも?
仏教の伝来は欽明天皇13年(西暦552年)に伝来したとされています!(諸説あり)
崇仏派の蘇我稲目と廃仏派物部尾輿との第一次宗教論争は疫病の発生で廃仏派が勝利!
敏達天皇14年(西暦585年)蘇我稲目の息子馬子が百済からの石仏を祭り再び疫病が発生!
廃仏派の物部尾輿の息子守屋が蘇我氏の建てた仏殿を焼き石仏を浪速の堀江に流した!
その後疫病は収まらず・・・再び馬子が敏達天皇の許可を得て仏像を祭る様になって両者激突!
用明天皇2年(西暦587年)馬子が初の宗教戦争【丁未の乱】を起こし物部守屋が戦死した物部一族に勝利し追放!
日本最初の仏教寺院飛鳥寺が誕生する事に!
物部氏一族は信濃に逃れ神道を守る為に戦死した守屋を祭る諏訪神社を建てたのかもね!
諏訪神社の磐座は【守屋山】山麓ですからね!
諏訪神社の神事には旧約聖書に纏わる祭事も多い!
御柱祭も昔は8歳の稚児をいけにえとして柱に縛り刃物で刺そうとすると別の神官が止め‥‥
代わりにシカ75頭を生贄として献上していた祭事!
アブラハムが息子イサクをモリヤ山で生贄に捧げようとして天使に止められて話にそっくり!
アブラハムとイサク (churchofjesuschrist.org)
蛙を捧げたり御柱祭もソロモン神殿に使ったレバノン杉も大木を運ぶ様の継承?など・・・
もっと言うと諏訪湖ってエルサレムとほぼ同じ標高なんだよね!
さらに諏訪大社前宮の十間堂拝殿は【ヤハウエの幕屋の寸法】と同じってんだから・・・
物部氏がユダヤ教徒の末裔だった可能性が・・・ずーと昔から諏訪と密接な関係を保っていた?
以後明治天皇の廃仏毀釈まで仏教全盛をなるのですが・・・・・
西暦625年蘇我馬子死去!蘇我入鹿が後を継ぎます!
皇極天皇4年(西暦645年)入鹿が乙巳の変で刺殺され大化の改新が始まる!
58年間も神道は脇役に甘んじてた訳で廃仏派の中臣がクーデターを起こしたのなら話は簡単!
本来なら国家宗教も神道中心になる筈が本人も含め子孫が藤原氏が仏教を容認し続けた理由は?
なぜ崇仏派の聖徳太子を歴史から抹殺しなかったんでしょう?
実は中臣鎌足なる人物は記紀が捏造した崇仏派の百済王族の末裔だったのでは?
だから新しい藤原姓を賜わる事になった?中臣姓で崇仏してたんじゃ都合悪いものね!
以後日本では神仏混合の時代に!


②Lost Child live in Japan since BC 660 邪馬台国徳島説補完 四国の縦走路ってインカ道みたいに高天原からの走れる伝達路だったりして?

まずは迫力満点の動画をどうぞ!
高所恐怖症の方は見ないで!

登山の動画って今までなら同行するカメラマンが必要で単独撮影なんて絶対無理!
ましてやゴジラの背みたいな危険な場所で上からカメラ回すなんて・・・
誰かがドローン使って撮る以外絶対無理でしたが・・・・・!
なんと360度カメラを使うと一人でこんな迫力の動画が撮れるんだって!(驚!)

彼女編集センスも抜群ですね!恐れ入りました!

高山の切り立った尾根ってこんなに小さく割れた岩だらけになってるとは・・・
森林限界を超えたら草も生えないので岩盤は割れないと思ってましたが・・・
岩の隙間の水分の氷結膨張で毎年徐々に割れて行くんだね!危険個所も年々増えるって事?
いずれ数千年後にはゴジラの背も崩れて剣山みたいな走れる稜線になってしまうんでしょうか?

まだまだ先まで尾根の縦走路は続いていると言ってますね~!

【この動画は高天原や邪馬台国の解明の鍵となるかもね!】

剣山からの縦走路って昔は四国全域の尾根に張り巡らされていたほんの一部なんじゃね?
四国山脈の尾根縦走路っていわば日本の【インカ道】みたいな周辺国への伝達道だったりして!
インカ帝国道路網
南北2000km以上も整備されていたインカ道より四国山脈の尾根の縦走路は簡単に出来たでしょう!
剣山への登山口として賑わっていた今や廃寺寸前の龍光寺!

四国山脈の尾根を焼く山焼きも縦走路の保全も兼ねていたりして?
もしかしたら‥‥
高天原って紀元前にアークを担ぎ上げたユダヤ氏族イザヤ一族が造り上げた山上国だったのかも!
しかしイザヤの末裔は王族では無いのでエルサレムに似た土地を探して諏訪に移った可能性も!
守屋山の西麓
信州辰野辺り?
だってエルサレムって海抜735mなんだよね!長野県諏訪湖とほぼ同じ・・・・(後述)
住み慣れた高地生活を忍んで蒸し暑い日本じゃ~高地に住みたくもなるよね!
とにかく剣山が高天原の第一候補にはなり得ますね!

剣山山頂にソロモンの財宝が隠されていると伝えられています!
アークも一緒に
今までは邪馬台国として八代市を第一候補の上げてきましたが・・・・
確かに魏の短里(76m~77m)だと沿岸航行での7千余里(約535km)の航行では・・・・
帯方郡から狗邪韓国まで届きませんので・・・・・
どうやら魏志倭人伝の行程距離は現地毎に計測による直線距離だったと決定して良いでしょう!

私は宮崎市から都城市一帯が邪馬台国だと思っていたのですが・・・
今までは減算方式で比定していたので【不彌国】から1300余里だと思ってましたから・・・
(12000-7000-1000-1000-1000-500-100-100~1300)
都城は候補地から外さざるを得ませんでした!

改めて邪馬台国の条件を設定すると・・・・
   (1)帯方郡より直線距離で1万2千余里(約912km~924km)
   (2)海に面していること!徳島県美浜には真珠取りの海女がいた!(現在も)
   (3)朱(丹)の原料【辰砂】を採掘・精錬した場所がある
   (4)東の海を渡った1千里先には倭国以外の国が!
   (5)周囲5千里(380km)=1250里四方(=約95km四方)
   (6)伊都国又は不彌国の南にあった!
   (7)邪馬台国北方は詳細に把握可能!その他の国は【遠絶】していて詳細不明!
残念ながら以前前否定した【八代市】は近過ぎて失格ですね!ましてや【吉野が里】も!
奈良県の【纏向遺跡】も遠過ぎて失格!近畿説は成立しない事は明らかにまっちゃいました!(笑)

更に当時の帯方郡が北朝鮮の何処にあったも未確定なので謎の解明を難しくしています!
直線距離で帯方郡から1万2千余里なら確かに阿波の国=徳島県も候補となります!(1)クリア
真珠取り【美浜の海女】の存在で(2)クリア 
祝詞の筑紫の日向の橘の小戸の【阿波岐原】も【阿波の萩原】だったてか?
若杉山辰砂採掘遺跡は卑弥呼の贈った朱(丹・辰砂から)の大規模産地だった訳だし(3)もクリア!


東の一千里先には紀伊半島が・・・(4)もクリア
四国山脈の山岳民族国家なら・・・(5)もクリア!
残りは(6)(7)だけ
卑弥呼の没後倭国大乱で後を継いだのが壹與(とよ・いよ)ですが・・・
伝説の踊り歌通り剣山の祭女だったりしてね!
でも投馬国(つま=辺境)を香川県に比定したのは大間違い!(失笑)
香川県に投馬国が存在してて船で行けるなら・・・
航海中に途中から1月もわざわざ苦労して陸行するより船で行きますよね!(苦笑)
投馬(つま)国は簡単明瞭!薩摩=「さ(西)・つま(辺境)」だったって事です!
研究者や歴史学者先生はこんな単純な事に気が付かないのかね!(大苦笑)
卑弥呼の百歩の塚を1里300歩として100歩を直径25.5mにするのも飛躍し過ぎ!(失笑)
動画では無理やり宮崎の対岸に船を着けて陸路にしてるんだけど船でもっと近くまで行けるよね!
全体的に良く出来ていたのに残念!
さらにこの徳島説動画の問題点は・・・
魏志倭人伝では明確に【伊都国or不彌國の南】と明記されている事です!
それまで方位の測定も正しいと言っておきながら【不彌国】の東じゃ説得力ゼロでしょ!
都合の良い事だけ言っってたんじゃ説得力無いもんね!
近畿論も九州説も皆我田引水で矛盾点を説明出来ないから今でも百科論争の謎なんだけどね!


【不彌国】から続く・・・邪馬台国への【水行10日・陸行1月】をどう読み解くかですが・・
投馬国(=薩摩から)更に南は太平洋上で論外!起点をどこにするかです!
宗像に着いてから一度陸行して再度航行するってのはどうなんでしょう?
私は邪馬台国まで一貫して船旅だったのではないかと思いますね!
起点が伊都国にしろ不彌国からにせよ南に水行10日は投馬国への半分!ほぼ宮崎付近になります!
しかし【不彌国】の南で宮崎から南で陸行1月(1日8kmでも240km)も掛かる場所なんて・・
残念ながら宮崎周囲には存在しません!宗像に戻っちゃいますから・・・

ですが・・・水行10日又は陸行1月と解釈したら・・・
帯方郡から1万2千余里は徳島だけじゃなく宮崎が俄然最有力候補地となります!
直線距離なら宮崎県~都城市は7万戸に相応しい候補地として浮上します!
そもそも島津家の分家に過ぎない北郷義久が都之城(宮崎県都城市都島町)を名乗れたのか?
【都】の古名が通称だったからなのでは?じゃないと尊大な名前を付けられ筈がないもんね!
おまけに宗像市を起点とするなら正にドンピシャで陸行1月だしね!
でも残念なことに宮崎も倭国を治めるには遠過ぎですし東側は海で条件に合致しませんし・・・
(7)の北方は詳細に戸数・道里を記述出来るには広大過ぎます!
しかも南は狗奴国と記載され、宮崎説では南は投馬国=薩摩ですから宮崎説も失格!
邪馬台国への【水行10日陸行1月】は全行程と解釈するのが一番答に近づく方法なのかも?

帯方郡から宗像まで水行10日!宗像から宮崎・都城へ1月の陸行なら問題化解決して・・・
神武東征も史実化出来るんだけど・・宮崎の邪馬台国⇒伊都国⇒樫原!残念!
結局振り出しに戻っちゃいましたね!(大苦笑)
剣山といえばソロモンの秘宝【聖櫃】=”失われたアーク”ですよね!
3種の神器ってユダヤのソロモン家と日本の天皇家だけ!
3種の神器を治めた聖櫃が行方不明になったのは紀元前586年の【ソロモンの神殿破壊】前!
紀元前722年には分裂した北イスラエルがアッシリアに滅ぼされてしまってます!
神武天皇即位は紀元前660年!神武東征では
八咫烏が吉野越えを先導し勝利に貢献!
阿波の吉野川も意味深ですよね!聖櫃が関係?
神輿を剣山山頂に担ぎ上げる

剣山神輿渡御祭1神輿=聖櫃のレプリカ!
高天原は聖櫃を担ぎ上げた剣山を中心に山上集落として存在していた可能性は高いでしょう!

ソロモンの神殿は意外と小さく長さ約=27mx幅=約9m(15間x5間)150畳なんですよね!


聖櫃を納めた至聖所は5間(9m)の正立方体!日本の神社の原型も5間四方だったのかも?
剣山山頂にも建てられる大きさです!
天皇家と密接な関係があるのに隠蔽された阿波の国!どんな人達が日本を動かしているのやら!
諏訪神社は徳島県多祁御奈刀彌神社(=元諏訪神社)から779年に分祀された神社ってんだから・・
阿波と諏訪には知られざる密接な関係が!
諏訪神社はユダヤとの関連行事も多くエルサレムってモリヤ山麓ですが諏訪本宮の後ろは守屋山!
しかも諏訪湖ってエルサレムとほぼ同じ標高だってんだから・・・
イザヤの末裔(神官)が聖櫃と一緒に諏訪に移住したと考えて間違いないでしょう!
多祁御奈刀彌神社は西の宮+東の宮が!諏訪大社には上社(西)と下社(東)が!なるほど納得!
意外と諏訪神社を調べると牛馬もいない山上国だった邪馬台国の秘密も解けたりするのかも?
でも剣山は戦前まで女人禁制でした!
邪馬台国だったら卑弥呼が剣山に住んでいたなら山頂で祭事を行ってんだろうし・・・
いつから剣山は女人禁制になったんでしょうか?

645年の大化の改新で【穢れ】思想が主流になったからなんでしょうかね!
で・・・既に聖櫃が移されていた諏訪に779年正式に分祀されんじゃないのかな~!
諏訪湖の湖底には四方形の物体が・・・・・神渡りも聖櫃のパワーだったりして? 

邪馬台国は剣山?Google Earthで古代史最大の謎を検証すると・・・・山上集落は高天原の名残?高天原は剣山周辺だった?

魏志倭人伝の帶方から邪馬台国までの距離1万2千余里を行程距離として考えていました!
帶方⇒七千餘里・到狗邪韓國⇒一海千餘里・至對馬國⇒一海千餘里・至一大國⇒一海千餘里・至末廬國ここまでで既に1万餘里!残りは2千餘里かありませんから私としては日田市に比定していたのですが・・・・

まさか3世紀の古代に帶方郡と邪馬台国の距離を直線距離で測れるとは思いもしなかった!
しかも正確ではないにしろ数キロ~十数キロの誤差で測る方法があったとは!
なるほど
餘里は誤差って事か!納得!
こうなると話は全く違ってきますね!


1里が75mだとすると12000x75m=900km!1万2千餘里は900km以上って事になります!
問題は帯方郡が何処に在ったかですが、同じく直線距離の表示だとするとソウル市では近すぎます!
狗邪韓國から7千餘里なので75*7000=525km!朝鮮半島南端から525km以上だとすると北朝鮮内の港だった可能性も!もしもこの説の様に正確に距離を測っていたとしたら・・・・・末廬國も見当違いしているのかも!将来日本攻略の資料として距離を正確に測った可能性も!
壱岐から75km以上なので福岡市の南部か今の福津市辺りなのかも
考えを纏めるには時間が掛かりそう!(苦笑)

畿内説は1万2千余里から距離的に有り得ないと思っているのですが帯方郡がソウル市なら距離も合いますね!神武東征の神話からも移動した後に中枢として繁栄した筈ですが!)
卑弥呼の墓(100歩)が25mってのは納得できませんが・・・一歩60cmとして60m程度じゃないの?
25mでも当時とすれば大きな墓だったんでしょうけど・・・

問題は1里を何mにするかです!この説では1里を75~76mとしています!
徳島説が説得力を発揮するのは、倭人伝に記述された丹(朱の原料=水銀・辰砂)は当時日本で唯一徳島県阿南市水井町の若杉山でしか辰砂が採掘されていなかった事実です!
いやー実に盲点でしたね!

九州説・畿内説とも自説に都合の悪いことは触れませんから!(大苦笑)
まさか古代に500km以上離れた場所を直線距離で測れるとは思いもしませんからね
なるほどこれなら、レイラインと呼ばれるほぼ正確に配置された神社の謎も簡単に解ける!
この方法なら富士山をに邪魔されず久能山東照宮の真北に日光東照宮を作れる訳だ!
まだ徳島説は、魏志倭人伝の水行20日陸行一月に合致するには不十分ですが卑弥呼の住居が剣山山頂付近だったとすれば1日25里で25里x28日=700里 港から52.5km!
邪馬台国徳島説上陸地点は三島?

貢物を携えて大人数で行列しながら険しい山道を登るとなると直線距離では50kmですが実際は1.5倍以上ですから28日近くは掛かるかもね?雨の日は休んだりしますでしょうし・・・・・

しかし、考えてみれば
山焼きされ清められた高原
は正に下界からは高天原だし・・・・・
邪馬台国には牛馬もいないって記述も山上集落だったら”なるほど”です!

卑弥呼の時代まで四国の高天原にヤマト国の支配層が住んでいたのかもね?
天孫降臨の神話は邪馬台国が山上から山麓へ降りた逸話なのかも?
卑弥呼が亡くなって徳島県気延山山頂に墓が作られ同時に政権中枢も下山?
毎年の山焼きも卑弥呼への送り火だったりして?
国が乱れたのも
山上に居住していた超越したカリスマ性が無くなったからなのかもね!
政権が移動した後の山上集落は避暑地?


それにしても四国ってほんとに謎めいた国です!

剣山の山頂を中心に壮大な山焼が行われていたり、祇園祭と同日の7月17日に剣山山頂への神輿担ぎ上げの祭りはあるし、剣山にはソロモンの秘宝伝説もあるし・・・・・・天皇家との結び付きも古くからあるのを知っていたのに・・・・・直線距離だとは考えが及ばず灯台下暗しでした!

邪馬台国徳島説はまったく眼中になかったとは、失われたアーク(聖櫃)&イザヤ研究者にしては、情けない話ですね!

日本神話の伊弉諾神はイザヤ!日本人の一部は古代ユダヤ民族の末裔!

もっともキリストの墓が戸来村にあったとされているし・・・・日本がエデンの園でユダヤ発祥の地だった可能性もあるのですが・・・・・
大杉博説・・・魏志倭人伝の方位を90度間違いとしなければ、もっと信じられたメジャーな説になったでしょう!



しかし、邪馬台国が四国発祥だとしたら、いろんな謎も解けるんですね!
なにせ最初の生まれた島は淡路島だし・・・・・地震や津波を恐れて高地に住むのも中東から移住した人達には安心出来る場所だし、ハエや蚊も縁が無く獣を追い払う山焼きはダニや蛭なども駆除する最良の方法だし・・そもそもエルサレムも海抜700mの高地なんだから!


267年268年には連続して日食が起こり卑弥呼も死去!戦乱を収める為、卑弥呼の跡を継いだ13歳の伊予・臺與が成長しカリスマ神功皇后として記紀に残されたのか?
日本統一がなされると、徳島では統制出来ないので、奈良盆地に移さざるを得なかったんでしょうか?!
私はアークと一緒に神官達はもっと前に諏訪に移ったと思いますね!
どこまでも直線に拘った古代道もこの測量術の賜物だったんですね!

福岡県・大分県豪雨、邪馬台国を襲う!被害拡大は戦後の植林政策の所為?

玄界灘で次々と巨大な積乱雲が発生し、日田市に向かって流れ込んで来ました!
福岡豪雨11時40分
防災科学技術研究所のより三次元降水分布のアニメーション より
福岡豪雨12時25分
まだ豪雨と言ってもさほどではありませんが・・・・・
福岡豪雨13時15分
午後1時過ぎから豪雨に・・・・・
福岡豪雨14時30分
朝倉市を中心にバケツをひっくり返した様な雨が・・・・
福岡豪雨15時40分
植林地帯に・・・
福岡豪雨16時10分
3時間経っても一向にやみません!
福岡豪雨16時55分
4時間・・・・・・
福岡豪雨17時45分
福岡豪雨18時35分
5時間も降りっぱなし・・・・・
福岡豪雨19時40分
6時間が経過・・・・7時間・・・・8時間・・・・・
福岡豪雨20時50分
ようやく、小降りになったのは午後9時過ぎ!その後も断続的に25mm以上の雨が
2福岡豪雨21時15分
なんと凄まじい豪雨だったんですね!
福岡豪雨
西日本は、元々根を大きく張る照葉樹林で、杉や松などの針葉樹は根も浅く標高500m以上の高地しか生えない針葉樹ですから、保水力も照葉樹林には劣ります。
竹林も平地じゃないと・・・・・・
斜面の地耐力は平地の比べて角度が急になるほど、又木々が大きくなるほど落ちるのは常識でも分りますよね!


戦後、木造家屋が多かったので焼け野原になった都市部の復興目的として国策で成長の早い杉の植林が進められ、紅葉の美しかった広葉樹の山林も杉や檜に植え替えられてしまいました。

しかし、木造住宅の減少、廉価な輸入木材の激増などで林業は一気に衰退!大きな木以外は二束三文で運び出す手間代にもならない時代なってしまいました!
補助でも受けなければ間引きした木々は切り倒したままにするしか有りません!
これも流木が多くなる一因でもあるのですが・・・・・
本来なら30年で伐採する杉も40年、50年と大きくしなければ高値では売れませんから密集したままじゃ地耐力超えてしまっています!
今度の大災害の最大原因となった流木も杉や檜の山林だったんでしょうね!
未曾有の降水量で、急斜面の地盤が大きく育った杉の重みに耐え切れず、地表もろ共崩落したのも当然と言えば当然!
大木と間伐材が一緒に流れ出したんじゃ橋がダムになって洪水にもなるわさ!

そもそも急な斜面で大木になる木々を植林するなんて、折角折角何千年も掛かって蓄積された腐葉土の崩落を助長するだけだと思いません?
定期的に間引きや伐採が行われていれば、斜面の総重量が変わらないのでまだ良いのですが、大木が多くなれば大量の降雨で簡単に地滑りが起きて当たり前!
一部では弊害を是正する為、広葉樹との混植樹も行われ始めてますが、今回の地滑りは急斜面に杉や檜だけを植えて大木に育てるへの警鐘と捉えるべきなのでは!
大木になれば崩落しないなんて論理的じゃない迷信!

日本中の到る所で同様の事が起きるのかもよ!
地球温暖化の所為だなんて学者さんは言ってますが、私は逆に極大期に温まった海水から蒸発した水蒸気が寒冷化しはじめている上空の冷気で豪雨を発生させている可能性の方が高いと思うのですが・・・・・海水の温度が上がるのは海流が弱っているのでは・・・・寒冷化の前に北極の氷層が溶け海水の塩分濃度低下するとメキシコ暖流の沈み込みが少なくなって海流の大循環が遅く(弱く)なってしまいヨーロッパが寒冷化する気候変動を引き起こしてしまうという学説です!
つまり、一時的に暖流の海水温度が上がるのは大寒流が弱くなってる所為で、温暖化でもない地球で太古から繰り返されてきた営みに過ぎないって事です!
この未曾有の豪雨もいずれ地球が寒冷化する前兆だったりしてね!

今回の豪雨、私が邪馬台国の候補地と考える日田市への街道沿いで起きました!
邪馬台国候補地
学者さんは勝手に魏志倭人伝の方位を変えてますが東南5百里、東南百里、東百里の記述にピッタリ当て嵌るのは日田市なんですね!
現在の福岡市は埋め立てられて元々の海岸線はもっと奥深かったので、末盧国だった可能性もあると思うのですが?

日田市は首都機能を発揮するのには狭過ぎたんでしょうけど、ひょっとしたら今回みたいな未曾有な豪雨で大和に移動する事になったのかも知れません!
ロマンを呼び起こす今回の豪雨でした!

邪馬台国は日田市!近畿地方は一万2千余里じゃ無理!

何回も書きますが、魏志倭人伝にはちゃんと邪馬台国までの距離が書いて有るじゃん!

 ”自郡至女王國、萬二千餘里”!自分勝手に解釈してもダメっすよ!

 

なんでこんなむちゃくちゃな解釈がまかり通るんでしょう?

 

近畿地方の銅鏡・銅鐸なんて後から移動したに決まってるのにね!

 

学者さんにも困ったもんだ!

「倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國

從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東到 其北岸狗邪韓國七千餘里」

「倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑をなす。旧百余國。漢の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十國。

郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓國をへて、あるいは、南しあるいは東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里

残りは五千余里しか有りません!

  

「始度一海千餘里 至對海國 其大官曰卑狗副曰卑奴毋離所 居絶島方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴」

始めて一海を渡ること千余里、対馬國に至る。その大官を卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。居る所絶島にして、方四百余里ばかり。土地は険しく深林多く、道路はきんろくのこみちの如し。千余戸有り。良田無く、海物を食いて自活し、船に乗りて南北に市てきす

対馬までで残りは四千里!

 

「又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗副曰卑奴毋離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食亦南北市」

又南に一海を渡ること千余里、命けてかん海と日う。一大國に至る。官は亦卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。方三百里ばかり。竹木そう林多く、三千ばかりの家有り。やや田地有り、田を耕せどなお食足らず、亦南北に市てきす。

残りは三千里になっちゃいました!

 

「又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前 人好捕魚鰒 水無深淺皆沈没取之」

又一海を渡ること千余里、末盧國に至る。四千余戸有り。山海にそいて居る。草木茂盛して行くに前人を見ず。好んで魚ふくを捕うるに、水、深浅と無く、皆沈没して之を取る。

日本に着いたら残りは二千里になっちゃいましたよ!

ここまでは誰も意義を唱えていませんから、邪馬台国までは末盧国から最大で二千余里なんです!

近畿説は最初から成り立ちません!

 学者って四則演算が出来ないらしい!(大爆笑)

 

単純に言えば末盧國を起点に一大國との2倍距離(約80~120KM、最大でも150KM)以内に邪馬台国はあると記述してあるのですから近畿は絶対に無理なんですよ!(爆笑)

東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 世有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」

東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。官を爾支と日い、副を泄謨觚・柄渠觚と日う。千余戸有り。世王有るも皆女王國に統属す。郡の使の往来して常に駐る所なり

日程に組み込まれていたなら残り千五百里!

 どう考えても伊都國が東南に当るには末盧國が今の唐津より北になければなりません!文字通り松浦半島の突端だったのかも?

 

東南至奴國百里 官曰?馬觚副曰卑奴毋離 有二萬餘戸

東行至不彌國百里 官曰多模副曰卑奴毋離 有千餘家」
東南のかた奴國に至ること百里。官をシ馬觚と日い、副を卑奴母離と日う。二萬余戸有り。 東行して不彌國に至ること百里。官を多模と日い、副を卑奴母離と日う。千余の家有り。

残り千三百里!ここまでは方向・到着地・距離の順で記述してあります!

 

 邪馬台国論争の最大の争点が

「南至投馬國水行二十日 官曰彌彌副曰彌彌那利 可五萬餘戸」

南のかた投馬國に至る。水行二十日。官を彌彌と日い、副を彌彌那利と日う。五萬余戸ばかり有り。

 

この段落と下記の邪馬台国までの日程を到着までの間に入れるのかで大きな論争になっているのですが入れるなら急流の川上り?私に言わせれば距離か書かれていないので伝聞として無視すべきでしょう

(本当に投馬国に行ったなら前の不彌國は内陸部ですから川を船で行く事になります!相当の急流を遡らない限り1300里を20日も掛かるなんてく有りえません!それにプラスして下記の行程!)

 

「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮 可七萬餘戸

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳・・・・自郡至女王國、萬二千餘里

南、邪馬壱國に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。官に伊支馬有り。次を彌馬升と日い、次を彌馬獲支と日い、次を奴佳テと日う。七萬余戸ばかり有り。女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の某國は遠絶にして得て詳らかにすべからず・・・・郡より女王国まで一万2千余里!

近畿か九州かなんて論争は起きっこないんですが!

この段落の水行十日陸行一月も色々の解釈がされていますが残り2千里しかないのですから、それを念頭に考えなければ空想です!

学者さんの自分勝手な解釈は色々ですね!”水行なら10日、陸行なら一月”とも解釈出来ますが、たった120~130kmをそんなに掛かるとは思えませんよね!

ましてや末盧国からでも”水行十日+陸行一月”なら近畿まで行けるなんて説は残り2千里ですから論外です!

 

注目すべきなのは、この距離の無い日程表は最初の段落では書かれていません!距離が書かれていないのは99.99999%伝聞ですよ!

 

記述した随行が全日程の客観的(伝聞)日数を書いたんだと判断して良いと思いますね!ガイドラインみたいなものでしょう!

前述の投馬国への日数も同じでガイドラインみたいなものなのでしょうね!

 

つまり順風満帆なら、郡から水行10日陸行一月の日数で邪馬台国に着けると!

 実際はこうじゃなかったんでしょうね!


基本的な問題から考えてみましょう!

 

後ろの段落に、「倭地温暖冬夏食生菜」と有ります!

邪馬台国の有る倭国は温暖で冬でも生野菜が食べられる国だった!

また「男子無大小皆黥面文身」とあり、男は大人・子供を問わず皆入れ墨をしていた!どちらかというとアイヌに近いイメージですね!しかも水中にもぐって魚を取ると!

大きな河川や海辺が近いイメージですよね!

 

いずれにしても邪馬台国は下の円の中(半径2千里以内)で発掘を待っているのでしょうね!中身は移されてほとんど空でしょうが!

 

 

私は日田市を一番候補に上げますね!

なぜ日田市かと言うと・・・

一、戦乱の後、女王として住居を構えるには、平地に造るより要塞堅固な地を選ぶ筈だと思うからです。

 

二、日田市は筑紫平野から一歩入り、後ろに神々しい阿蘇九重由布岳の三火山を頂く火の国”山門”として相応しい場所と言えるからです。

三、飛鳥三山(畝傍・耳成・香具山)に匹敵する≪日隅・月隅・星隅の三隅三山もあります。

ヤマト東遷説を考えた時、なぜ宣化天皇(535年即位)本格的大和朝廷として日田市に似た奈良盆地の辺鄙な飛鳥(明日香)に都を造成した謎も解けるからです!

 

明日香の地は、日本最古の神社とも言える(大神)神社の御神体三輪山を望む場所でもあります! 輪山とはカルデラです!

日田を推古するのも最適なばしょだったともいえます!

日田市にある月隈の永山城跡が卑弥呼の塚なのかもね!

 

ロマンとしては阿蘇や高千穂なんて素晴らしいと思うのですが、実質的官僚組織があった伊都国伊都国宮地嶽神社辺り?城塞として丘の上に造られていた筈)への指令・伝達を迅速に行うには交通の便利さ=川下りも必要だったと思うからです!

日田市からは筑後川を船で下り久留米市から宝満川を遡れば大宰府ですから意外と行きの便はいいですものね!

 

問題は魏志倭人伝では邪馬台国からみた北方の国々について記述していますが日田市の北はほとんどが山深き山間部!

方位が45度ずれればドンピシャなんですが・・・

方位が正しいとすれば・・・・久留米市の南に行った気高き場所となれば筑後国一の宮高良大社しか有りません!

高良大社が霊験あらたかな卑弥呼の祭祀場所だとすれば話は簡単!交通の便良し、当時九州一の大都市に相応しい立地条件に恵まれた豊かな土地ですから・・常識過ぎて!(苦笑)

”やまと”を山々の突端の意味だと解釈すればこちらもドンピシャですが飛鳥との整合性が取れません!

 それに戦乱の後、平野の真ん中に住居を構えるなんてことはしないですよ!

 

私は推古天皇は三隅(日田)王朝の末裔だと思っていますが、皆様はどう思もわれます?

 


天皇家で の名を諡(おくりな)された皇族は初代・神武天皇、10代・崇神天皇、15代・応神天皇と応神天皇の母・神功皇后(170~269)しかいません!

この4人は神話の世界!虚実混合の物語!

 

卑彌呼が女王になる前は70~80年も乱れていた=乱世!

卑弥呼が没した(247年)後も乱れ、卑彌呼宗女壹與(13歳)が女王ななって収まったとの記述も!

卑彌呼以死 大作家 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與 年十三為王 國中遂定 政等以檄告喻壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹

卑彌呼や壹與が女王で有った期間は、神功皇后が仲哀天皇亡き後応神天皇が即位するまでの間実質女王だった期間とダブります!

壹與が没した後、倭国が乱れに乱れた戦国時代に突入したのは間違いないでしょう!

宣化天皇が即位するまで、皇居は天皇が変わるたびに移され続けていました!

まるで力のある豪族が実力で日本国王の座に就いたように!

250年近く下剋上の時代が続いたのでしょう!

穢れを忌み嫌ったからだなんて頓珍漢もいますが、それは仏教が根付いてから・・・

 

戦乱で歴史書?も消え、推古朝になってようやく旧辞・帝紀の歴史編纂が出来るようなり、後年日本書紀・古事記の編纂が始まる訳ですが、宣化天皇以前の物語は虚実混合で逸話物語といって良いでしょう!

しかし日本書紀・古事記歴史物語も、萬世一系の天皇家は九州から大和にやってきた末裔と明快に記述しています!

応神・仁徳陵の大きさは世界有数ですから、250年の歳月を費やして、中国・韓国の帰化人の技術も消化して、中央集権がようやく構築出来たのでは!

 

推古朝で絶大な権力を持った蘇我氏が全てを物語っているのです!

われ(我)!よみがえり(蘇)!飛鳥の地で!と

明日香の地に住む蘇我氏はそれこそ”飛ぶ鳥を落とす勢い”で大豪族になった!で、明日香=飛鳥なんちゃって!(笑)

 

蘇っても、すぐに帰化人・鎌足に天誅されてしまうのですが・・・推古とは”昔の事柄をおしはかることだそうで”・・・

 

いまこうやって書いたり観て頂いてる事そて自体が推古してるって訳ですな~(笑)

 

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