素晴らしきかな日本人 by 小早川俊一

御覧戴いてありがとうございます。2010年3月著名人・CM以外のブロガーを締め出した”イザ・ブログ”からあちこちテスト投稿後、過去のイザ・ブログ原稿と一緒にライブドア・ブログに移行しました。名も無きブロガーの悲哀ですね(笑)2013年は20年毎に行われる、お伊勢さまの第62回式年遷宮!これからの20年は弱者優先だった”米の座”から"働かない者食うべからず"の”金の座”に”ご遷移”されましたので[才覚次第で大金持ちになれる]チャンスに溢れる激動の弱肉強食の時代となる筈です! 人類史上[誰でも何でも平等]なんて国家が繁栄した事はなく、官庁.学校.企業も解雇も出来ず努力もしない低レベルの輩が大手を振ってのさばってる日本に明るい未来はあるのでしょうか?もっと競争原理を容認し”ジャパン・ドリーム”が実現する社会にしてほしいものです!

邪馬台国

邪馬台国は剣山?Google Earthで古代史最大の謎を検証すると・・・・山上集落は高天原の名残?高天原は剣山周辺だった?

魏志倭人伝の帶方から邪馬台国までの距離1万2千余里を行程距離として考えていました!
帶方⇒七千餘里・到狗邪韓國⇒一海千餘里・至對馬國⇒一海千餘里・至一大國⇒一海千餘里・至末廬國ここまでで既に1万餘里!残りは2千餘里かありませんから私としては日田市に比定していたのですが・・・・

まさか3世紀の古代に帶方郡と邪馬台国の距離を直線距離で測れるとは思いもしなかった!
しかも正確ではないにしろ数キロ~十数キロの誤差で測る方法があったとは!
なるほど
餘里は誤差って事か!納得!
こうなると話は全く違ってきますね!


1里が75mだとすると12000x75m=900km!1万2千餘里は900km以上って事になります!
問題は帯方郡が何処に在ったかですが、同じく直線距離の表示だとするとソウル市では近すぎます!
狗邪韓國から7千餘里なので75*7000=525km!朝鮮半島南端から525km以上だとすると北朝鮮内の港だった可能性も!もしもこの説の様に正確に距離を測っていたとしたら・・・・・末廬國も見当違いしているのかも!将来日本攻略の資料として距離を正確に測った可能性も!
壱岐から75km以上なので福岡市の南部か今の福津市辺りなのかも
考えを纏めるには時間が掛かりそう!(苦笑)

畿内説は1万2千余里から距離的に有り得ないと思っているのですが帯方郡がソウル市なら距離も合いますね!神武東征の神話からも移動した後に中枢として繁栄した筈ですが!)
卑弥呼の墓(100歩)が25mってのは納得できませんが・・・一歩60cmとして60m程度じゃないの?
25mでも当時とすれば大きな墓だったんでしょうけど・・・

問題は1里を何mにするかです!この説では1里を75~76mとしています!
徳島説が説得力を発揮するのは、倭人伝に記述された丹(朱の原料=水銀・辰砂)は当時日本で唯一徳島県阿南市水井町の若杉山でしか辰砂が採掘されていなかった事実です!
いやー実に盲点でしたね!

九州説・畿内説とも自説に都合の悪いことは触れませんから!(大苦笑)
まさか古代に500km以上離れた場所を直線距離で測れるとは思いもしませんからね
なるほどこれなら、レイラインと呼ばれるほぼ正確に配置された神社の謎も簡単に解ける!
この方法なら富士山をに邪魔されず久能山東照宮の真北に日光東照宮を作れる訳だ!
まだ徳島説は、魏志倭人伝の水行20日陸行一月に合致するには不十分ですが卑弥呼の住居が剣山山頂付近だったとすれば1日25里で25里x28日=700里 港から52.5km!
邪馬台国徳島説上陸地点は三島?

貢物を携えて大人数で行列しながら険しい山道を登るとなると直線距離では50kmですが実際は1.5倍以上ですから28日近くは掛かるかもね?雨の日は休んだりしますでしょうし・・・・・

しかし、考えてみれば
山焼きされ清められた高原
は正に下界からは高天原だし・・・・・
邪馬台国には牛馬もいないって記述も山上集落だったら”なるほど”です!

卑弥呼の時代まで四国の高天原にヤマト国の支配層が住んでいたのかもね?
天孫降臨の神話は邪馬台国が山上から山麓へ降りた逸話なのかも?
卑弥呼が亡くなって徳島県気延山山頂に墓が作られ同時に政権中枢も下山?
毎年の山焼きも卑弥呼への送り火だったりして?
国が乱れたのも
山上に居住していた超越したカリスマ性が無くなったからなのかもね!
政権が移動した後の山上集落は避暑地?


それにしても四国ってほんとに謎めいた国です!

剣山の山頂を中心に壮大な山焼が行われていたり、祇園祭と同日の7月17日に剣山山頂への神輿担ぎ上げの祭りはあるし、剣山にはソロモンの秘宝伝説もあるし・・・・・・天皇家との結び付きも古くからあるのを知っていたのに・・・・・直線距離だとは考えが及ばず灯台下暗しでした!

邪馬台国徳島説はまったく眼中になかったとは、失われたアーク(聖櫃)&イザヤ研究者にしては、情けない話ですね!

日本神話の伊弉諾神はイザヤ!日本人の一部は古代ユダヤ民族の末裔!

もっともキリストの墓が戸来村にあったとされているし・・・・日本がエデンの園でユダヤ発祥の地だった可能性もあるのですが・・・・・
大杉博説・・・魏志倭人伝の方位を90度間違いとしなければ、もっと信じられたメジャーな説になったでしょう!



しかし、邪馬台国が四国発祥だとしたら、いろんな謎も解けるんですね!
なにせ最初の生まれた島は淡路島だし・・・・・地震や津波を恐れて高地に住むのも中東から移住した人達には安心出来る場所だし、ハエや蚊も縁が無く獣を追い払う山焼きはダニや蛭なども駆除する最良の方法だし・・そもそもエルサレムも海抜700mの高地なんだから!


267年268年には連続して日食が起こり卑弥呼も死去!戦乱を収める為、卑弥呼の跡を継いだ13歳の伊予・臺與が成長しカリスマ神功皇后として記紀に残されたのか?
日本統一がなされると、徳島では統制出来ないので、奈良盆地に移さざるを得なかったんでしょうか?!
私はアークと一緒に神官達はもっと前に諏訪に移ったと思いますね!
どこまでも直線に拘った古代道もこの測量術の賜物だったんですね!

福岡県・大分県豪雨、邪馬台国を襲う!被害拡大は戦後の植林政策の所為?

玄界灘で次々と巨大な積乱雲が発生し、日田市に向かって流れ込んで来ました!
福岡豪雨11時40分
防災科学技術研究所のより三次元降水分布のアニメーション より
福岡豪雨12時25分
まだ豪雨と言ってもさほどではありませんが・・・・・
福岡豪雨13時15分
午後1時過ぎから豪雨に・・・・・
福岡豪雨14時30分
朝倉市を中心にバケツをひっくり返した様な雨が・・・・
福岡豪雨15時40分
植林地帯に・・・
福岡豪雨16時10分
3時間経っても一向にやみません!
福岡豪雨16時55分
4時間・・・・・・
福岡豪雨17時45分
福岡豪雨18時35分
5時間も降りっぱなし・・・・・
福岡豪雨19時40分
6時間が経過・・・・7時間・・・・8時間・・・・・
福岡豪雨20時50分
ようやく、小降りになったのは午後9時過ぎ!その後も断続的に25mm以上の雨が
2福岡豪雨21時15分
なんと凄まじい豪雨だったんですね!
福岡豪雨
西日本は、元々根を大きく張る照葉樹林で、杉や松などの針葉樹は根も浅く標高500m以上の高地しか生えない針葉樹ですから、保水力も照葉樹林には劣ります。
竹林も平地じゃないと・・・・・・
斜面の地耐力は平地の比べて角度が急になるほど、又木々が大きくなるほど落ちるのは常識でも分りますよね!


戦後、木造家屋が多かったので焼け野原になった都市部の復興目的として国策で成長の早い杉の植林が進められ、紅葉の美しかった広葉樹の山林も杉や檜に植え替えられてしまいました。

しかし、木造住宅の減少、廉価な輸入木材の激増などで林業は一気に衰退!大きな木以外は二束三文で運び出す手間代にもならない時代なってしまいました!
補助でも受けなければ間引きした木々は切り倒したままにするしか有りません!
これも流木が多くなる一因でもあるのですが・・・・・
本来なら30年で伐採する杉も40年、50年と大きくしなければ高値では売れませんから密集したままじゃ地耐力超えてしまっています!
今度の大災害の最大原因となった流木も杉や檜の山林だったんでしょうね!
未曾有の降水量で、急斜面の地盤が大きく育った杉の重みに耐え切れず、地表もろ共崩落したのも当然と言えば当然!
大木と間伐材が一緒に流れ出したんじゃ橋がダムになって洪水にもなるわさ!

そもそも急な斜面で大木になる木々を植林するなんて、折角折角何千年も掛かって蓄積された腐葉土の崩落を助長するだけだと思いません?
定期的に間引きや伐採が行われていれば、斜面の総重量が変わらないのでまだ良いのですが、大木が多くなれば大量の降雨で簡単に地滑りが起きて当たり前!
一部では弊害を是正する為、広葉樹との混植樹も行われ始めてますが、今回の地滑りは急斜面に杉や檜だけを植えて大木に育てるへの警鐘と捉えるべきなのでは!
大木になれば崩落しないなんて論理的じゃない迷信!

日本中の到る所で同様の事が起きるのかもよ!
地球温暖化の所為だなんて学者さんは言ってますが、私は逆に極大期に温まった海水から蒸発した水蒸気が寒冷化しはじめている上空の冷気で豪雨を発生させている可能性の方が高いと思うのですが・・・・・海水の温度が上がるのは海流が弱っているのでは・・・・寒冷化の前に北極の氷層が溶け海水の塩分濃度低下するとメキシコ暖流の沈み込みが少なくなって海流の大循環が遅く(弱く)なってしまいヨーロッパが寒冷化する気候変動を引き起こしてしまうという学説です!
つまり、一時的に暖流の海水温度が上がるのは大寒流が弱くなってる所為で、温暖化でもない地球で太古から繰り返されてきた営みに過ぎないって事です!
この未曾有の豪雨もいずれ地球が寒冷化する前兆だったりしてね!

今回の豪雨、私が邪馬台国の候補地と考える日田市への街道沿いで起きました!
邪馬台国候補地
学者さんは勝手に魏志倭人伝の方位を変えてますが東南5百里、東南百里、東百里の記述にピッタリ当て嵌るのは日田市なんですね!
現在の福岡市は埋め立てられて元々の海岸線はもっと奥深かったので、末盧国だった可能性もあると思うのですが?

日田市は首都機能を発揮するのには狭過ぎたんでしょうけど、ひょっとしたら今回みたいな未曾有な豪雨で大和に移動する事になったのかも知れません!
ロマンを呼び起こす今回の豪雨でした!

邪馬台国は日田市!近畿地方は一万2千余里じゃ無理!

何回も書きますが、魏志倭人伝にはちゃんと邪馬台国までの距離が書いて有るじゃん!

 ”自郡至女王國、萬二千餘里”!自分勝手に解釈してもダメっすよ!

 

なんでこんなむちゃくちゃな解釈がまかり通るんでしょう?

 

近畿地方の銅鏡・銅鐸なんて後から移動したに決まってるのにね!

 

学者さんにも困ったもんだ!

「倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國

從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東到 其北岸狗邪韓國七千餘里」

「倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑をなす。旧百余國。漢の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十國。

郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓國をへて、あるいは、南しあるいは東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里

残りは五千余里しか有りません!

  

「始度一海千餘里 至對海國 其大官曰卑狗副曰卑奴毋離所 居絶島方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴」

始めて一海を渡ること千余里、対馬國に至る。その大官を卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。居る所絶島にして、方四百余里ばかり。土地は険しく深林多く、道路はきんろくのこみちの如し。千余戸有り。良田無く、海物を食いて自活し、船に乗りて南北に市てきす

対馬までで残りは四千里!

 

「又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗副曰卑奴毋離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食亦南北市」

又南に一海を渡ること千余里、命けてかん海と日う。一大國に至る。官は亦卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。方三百里ばかり。竹木そう林多く、三千ばかりの家有り。やや田地有り、田を耕せどなお食足らず、亦南北に市てきす。

残りは三千里になっちゃいました!

 

「又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前 人好捕魚鰒 水無深淺皆沈没取之」

又一海を渡ること千余里、末盧國に至る。四千余戸有り。山海にそいて居る。草木茂盛して行くに前人を見ず。好んで魚ふくを捕うるに、水、深浅と無く、皆沈没して之を取る。

日本に着いたら残りは二千里になっちゃいましたよ!

ここまでは誰も意義を唱えていませんから、邪馬台国までは末盧国から最大で二千余里なんです!

近畿説は最初から成り立ちません!

 学者って四則演算が出来ないらしい!(大爆笑)

 

単純に言えば末盧國を起点に一大國との2倍距離(約80~120KM、最大でも150KM)以内に邪馬台国はあると記述してあるのですから近畿は絶対に無理なんですよ!(爆笑)

東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 世有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」

東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。官を爾支と日い、副を泄謨觚・柄渠觚と日う。千余戸有り。世王有るも皆女王國に統属す。郡の使の往来して常に駐る所なり

日程に組み込まれていたなら残り千五百里!

 どう考えても伊都國が東南に当るには末盧國が今の唐津より北になければなりません!文字通り松浦半島の突端だったのかも?

 

東南至奴國百里 官曰?馬觚副曰卑奴毋離 有二萬餘戸

東行至不彌國百里 官曰多模副曰卑奴毋離 有千餘家」
東南のかた奴國に至ること百里。官をシ馬觚と日い、副を卑奴母離と日う。二萬余戸有り。 東行して不彌國に至ること百里。官を多模と日い、副を卑奴母離と日う。千余の家有り。

残り千三百里!ここまでは方向・到着地・距離の順で記述してあります!

 

 邪馬台国論争の最大の争点が

「南至投馬國水行二十日 官曰彌彌副曰彌彌那利 可五萬餘戸」

南のかた投馬國に至る。水行二十日。官を彌彌と日い、副を彌彌那利と日う。五萬余戸ばかり有り。

 

この段落と下記の邪馬台国までの日程を到着までの間に入れるのかで大きな論争になっているのですが入れるなら急流の川上り?私に言わせれば距離か書かれていないので伝聞として無視すべきでしょう

(本当に投馬国に行ったなら前の不彌國は内陸部ですから川を船で行く事になります!相当の急流を遡らない限り1300里を20日も掛かるなんてく有りえません!それにプラスして下記の行程!)

 

「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮 可七萬餘戸

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳・・・・自郡至女王國、萬二千餘里

南、邪馬壱國に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。官に伊支馬有り。次を彌馬升と日い、次を彌馬獲支と日い、次を奴佳テと日う。七萬余戸ばかり有り。女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の某國は遠絶にして得て詳らかにすべからず・・・・郡より女王国まで一万2千余里!

近畿か九州かなんて論争は起きっこないんですが!

この段落の水行十日陸行一月も色々の解釈がされていますが残り2千里しかないのですから、それを念頭に考えなければ空想です!

学者さんの自分勝手な解釈は色々ですね!”水行なら10日、陸行なら一月”とも解釈出来ますが、たった120~130kmをそんなに掛かるとは思えませんよね!

ましてや末盧国からでも”水行十日+陸行一月”なら近畿まで行けるなんて説は残り2千里ですから論外です!

 

注目すべきなのは、この距離の無い日程表は最初の段落では書かれていません!距離が書かれていないのは99.99999%伝聞ですよ!

 

記述した随行が全日程の客観的(伝聞)日数を書いたんだと判断して良いと思いますね!ガイドラインみたいなものでしょう!

前述の投馬国への日数も同じでガイドラインみたいなものなのでしょうね!

 

つまり順風満帆なら、郡から水行10日陸行一月の日数で邪馬台国に着けると!

 実際はこうじゃなかったんでしょうね!


基本的な問題から考えてみましょう!

 

後ろの段落に、「倭地温暖冬夏食生菜」と有ります!

邪馬台国の有る倭国は温暖で冬でも生野菜が食べられる国だった!

また「男子無大小皆黥面文身」とあり、男は大人・子供を問わず皆入れ墨をしていた!どちらかというとアイヌに近いイメージですね!しかも水中にもぐって魚を取ると!

大きな河川や海辺が近いイメージですよね!

 

いずれにしても邪馬台国は下の円の中(半径2千里以内)で発掘を待っているのでしょうね!中身は移されてほとんど空でしょうが!

 

 

私は日田市を一番候補に上げますね!

なぜ日田市かと言うと・・・

一、戦乱の後、女王として住居を構えるには、平地に造るより要塞堅固な地を選ぶ筈だと思うからです。

 

二、日田市は筑紫平野から一歩入り、後ろに神々しい阿蘇九重由布岳の三火山を頂く火の国”山門”として相応しい場所と言えるからです。

三、飛鳥三山(畝傍・耳成・香具山)に匹敵する≪日隅・月隅・星隅の三隅三山もあります。

ヤマト東遷説を考えた時、なぜ宣化天皇(535年即位)本格的大和朝廷として日田市に似た奈良盆地の辺鄙な飛鳥(明日香)に都を造成した謎も解けるからです!

 

明日香の地は、日本最古の神社とも言える(大神)神社の御神体三輪山を望む場所でもあります! 輪山とはカルデラです!

日田を推古するのも最適なばしょだったともいえます!

日田市にある月隈の永山城跡が卑弥呼の塚なのかもね!

 

ロマンとしては阿蘇や高千穂なんて素晴らしいと思うのですが、実質的官僚組織があった伊都国伊都国宮地嶽神社辺り?城塞として丘の上に造られていた筈)への指令・伝達を迅速に行うには交通の便利さ=川下りも必要だったと思うからです!

日田市からは筑後川を船で下り久留米市から宝満川を遡れば大宰府ですから意外と行きの便はいいですものね!

 

問題は魏志倭人伝では邪馬台国からみた北方の国々について記述していますが日田市の北はほとんどが山深き山間部!

方位が45度ずれればドンピシャなんですが・・・

方位が正しいとすれば・・・・久留米市の南に行った気高き場所となれば筑後国一の宮高良大社しか有りません!

高良大社が霊験あらたかな卑弥呼の祭祀場所だとすれば話は簡単!交通の便良し、当時九州一の大都市に相応しい立地条件に恵まれた豊かな土地ですから・・常識過ぎて!(苦笑)

”やまと”を山々の突端の意味だと解釈すればこちらもドンピシャですが飛鳥との整合性が取れません!

 それに戦乱の後、平野の真ん中に住居を構えるなんてことはしないですよ!

 

私は推古天皇は三隅(日田)王朝の末裔だと思っていますが、皆様はどう思もわれます?

 


天皇家で の名を諡(おくりな)された皇族は初代・神武天皇、10代・崇神天皇、15代・応神天皇と応神天皇の母・神功皇后(170~269)しかいません!

この4人は神話の世界!虚実混合の物語!

 

卑彌呼が女王になる前は70~80年も乱れていた=乱世!

卑弥呼が没した(247年)後も乱れ、卑彌呼宗女壹與(13歳)が女王ななって収まったとの記述も!

卑彌呼以死 大作家 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與 年十三為王 國中遂定 政等以檄告喻壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹

卑彌呼や壹與が女王で有った期間は、神功皇后が仲哀天皇亡き後応神天皇が即位するまでの間実質女王だった期間とダブります!

壹與が没した後、倭国が乱れに乱れた戦国時代に突入したのは間違いないでしょう!

宣化天皇が即位するまで、皇居は天皇が変わるたびに移され続けていました!

まるで力のある豪族が実力で日本国王の座に就いたように!

250年近く下剋上の時代が続いたのでしょう!

穢れを忌み嫌ったからだなんて頓珍漢もいますが、それは仏教が根付いてから・・・

 

戦乱で歴史書?も消え、推古朝になってようやく旧辞・帝紀の歴史編纂が出来るようなり、後年日本書紀・古事記の編纂が始まる訳ですが、宣化天皇以前の物語は虚実混合で逸話物語といって良いでしょう!

しかし日本書紀・古事記歴史物語も、萬世一系の天皇家は九州から大和にやってきた末裔と明快に記述しています!

応神・仁徳陵の大きさは世界有数ですから、250年の歳月を費やして、中国・韓国の帰化人の技術も消化して、中央集権がようやく構築出来たのでは!

 

推古朝で絶大な権力を持った蘇我氏が全てを物語っているのです!

われ(我)!よみがえり(蘇)!飛鳥の地で!と

明日香の地に住む蘇我氏はそれこそ”飛ぶ鳥を落とす勢い”で大豪族になった!で、明日香=飛鳥なんちゃって!(笑)

 

蘇っても、すぐに帰化人・鎌足に天誅されてしまうのですが・・・推古とは”昔の事柄をおしはかることだそうで”・・・

 

いまこうやって書いたり観て頂いてる事そて自体が推古してるって訳ですな~(笑)

 

帯方郡から邪馬台国まで1万2千余里!奈良は遠すぎるのだ!(大笑い)

近畿説は無理!知らないって無責任で好いよね!大笑い)

古事記にも日本書紀にも天皇家は九州から来たって書いてあるじゃ有りませんか!

 銅鏡だって卑弥呼に纏わる品々だって一緒に持ってくるのは当然ですよ!

 

もっとも天皇家が近畿に攻め込んだのは、卑弥呼の時代からずっと後の話ですが・・・・ヤマト帝国の源流邪馬台国は九州にあったのですよ!

 なぜかって?

魏志倭人伝に明確に記述されているからです!

 

倭人在帯方東南大海之中依山爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使早譯所通三十國

從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里(残り5千余里)

始度一海千餘里至對馬國其大官曰卑狗福曰卑奴母離所居絶方可四百餘里土地山險多深林道路如禽 鹿徑有千餘戸無良田食海物自活乗船南北糴(残り4千余里)

又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里多竹木叢(残り3千余里)
林有三千許家差有田地耗田猶不足食亦南北市糴

又渡一海千餘里至末盧國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈沒取之 (残り2千余里)

釜山~対馬と対馬~壱岐までほぼ同じで75km強!

一里は750mとしても末盧國から邪馬台国までは150km強しか無いのです!

末盧國とされる松浦市から奈良県まで500km以上有るんですよ!

私から言わせれば邪馬台国近畿説は無理矢理のこじつけです!

しかし邪馬台国の後継者が近畿に進出して、大和政権を確立した事は間違い有りませんけどね!

 

東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸世有王皆統屬女王國 郡使往來常所駐 (残り1500余里=112.5km~)
福岡から100km近辺で古墳のある場所といったら私は日田市の一番阿蘇よりだと思いますけど 

東南至奴國百里官曰馬觚副曰卑奴母離有二萬餘戸(残り1400余里=105km~)

  

東行至不彌國百里官曰多模副曰卑奴母離有千餘家(残り1300余里=97.5km~)

 今までの余里を引けば残りは1200余里以下と言ってもいい(85km!)

次の一文が大論争を呼んだのですが、
至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸

しかし海上交通とは限りません!今までの論争で川を人力(縄で引っ張る)を使って船で遡る事”を忘れてはいませんかね?川の水かさが増えていれば思いのほか日数は掛かるけど楽チン!(エンジンの無い江戸時代までは川を遡る内陸の船旅も当たり前だった!)だから雨季以降に訪れたのでしょう!

 

そして

南至邪馬壹

女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次
曰奴佳可七萬餘戸・・・・・

其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王自郡至女王國萬二千餘里!
私の考えでは福岡から御笠川で大宰府まで川を遡り宝満川に乗り換えて一旦筑後川の合流点まで下り筑後川を遡る行程なら水行20日位になるかな~

筑後川と宝満川の合流点は久留米市!記述道理なら久留米市は投馬国となる!

久留米市から筑後川を船で遡ると日田市に到着する!その奥が邪馬台国!久留米市より南の!

 以前から日田市に注目してる理由は、魏志倭人伝のもう一つの記述です!

 

 

 つまり邪馬台国の東には一千余里の海があるって事です!日田市から中津港に出て宇部まで一千余里=75km~!東には相応な豊予海峡もある!奈良の東には千里近く海は無い!

 

豊前・豊後の中心!豊かだったからとよの国と呼ばれたんだと思うよ!

神主さんの祝詞(のりと)にも葦原の中津国を・・・・と!

 

女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里又有裸國黒齒國復在有東南船行一年可至參問倭地絶在海中洲之上或絶或連周旋可五千餘里
邪馬台国がもしも奈良だったっら水行20日の間寄港する大きな港の記述が無いのは不自然とは考えないのだろうか!しかも瀬戸内海航海の記述が全く無いなんて何も無い川を遡る方が正解だと思うんだけどな~!

 

邪馬台国の場所は?答えは一万2千余里!

魏志倭人伝にちゃんと書いてあります!帯方群から卑弥呼の邪馬台国までの距離が!

 

郡よりその北岸狗邪韓國に至る七千余里 

12,000余里-7,000余里=5,000里+-

 

始めて一海を渡ること千余里、対馬國に至る

5,000里-1,000余里=4,000里+-

 

又南に一海を渡ること千余里、.....一大國に至る

4,000里1,000余里3,000里+-

 

又一海を渡ること千余里、末盧國に至る

3,000里1,000里=2,000里+-

 

東南のかた陸五百里にして、伊都國にる(到着の到を使用!ここまで来た事は文面から確実)

2,000里-500里=1,500里+-

 

東南のかた奴國に至ること百里 (文が無いので紹介文では?とも)

1,500里-100里=1,400里+-

 

して不彌國に至ること百里。(伊都國の後の紹介記述は伝聞とも解釈も出来ますね!)

1,400里-100里=1,300里+-

 

南のかた投馬國に至る。二十日。←これが問題!

不彌國(伊都國起点とする方が自然です)から投馬國までは水行二十日かかるのでしょう。(畿内派の方は、行文があるので実際に行ったとの根拠にしてますがね)

 

 

南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。.......七萬余戸有り。女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の某國は遠絶にして得て詳らかにすべからず。

(北は女王国に統属されていたが、邪馬台国の南は遠く情報が無いと書いていますね!ということは邪馬台国の南は山岳地帯か海ということですよね!) 

 

次に斯馬國有り。次に己百支國有り。次に伊邪國有り。次に郡支國有り。次に彌奴國有り。次に好古都國有り。次に不呼國有り。次に姐奴國有り。次に対蘇國あり。次に蘇奴國有り。次に呼邑國有り。次に華奴蘇奴國有り。次に鬼國有り。次に為吾國有り。次に鬼奴國有り。次に邪馬國有り。 次に躬臣國有り。次に巴利國有り。次に支惟國有り。次に烏奴國有り。次に奴國有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。

その南に狗奴國有り。男子を王となす。その官に狗古智卑狗有り。女王に属せず。郡より女王國に至ること萬二千余里。

 

残り約1300里に水行10日陸行一月も掛かるのでしょうかね?この日数の解釈は常識的に全行程でこれだけ掛かったと解釈すべきですよ!

 まして投馬國までの水行20日をプラスしたらわずか1300里(約100km)を水行一月陸行一月も掛かる事に!無茶苦茶なでっちあげですよ!年金の試算並み!(大笑い)

 

消去法で投馬國までの定期航路が不彌國から出ていたと解釈して良いと思いますね。

(但し、伊都國から邪馬台国までの距離を記述したとすると水行で10日又は陸行で一月となると話は別になります!伊都國から投馬國までの半分は水行10日大分県にその名も中津(市)があります) 

 

邪馬台国は不彌國伊都國起点でも同じから約1300里(約100km)のところにあった!と記述されているのですから、畿内(奈良県?)なんて残念ながら有りえません!

 

基準となる距離は対馬國から一大國までの距離から3割増しまでの距離としますと

 

対馬から壱岐まで約75km=千余里ですから、3割増しは97.5km以下で邪馬台国!

伊都國までしか実際に行かなかったとしても約1,500里以下=112.5km以下!

 

邪馬台国は不彌國や伊都國から約100km圏内にあったになりますよね。

(奴國までの距離を入れても入れなくとも大差無い)

 

これは動かせない絶対的基準なのですが、勝手に水行20日陸行一月も掛かるとは!自分勝手な解釈以外の何物でも無いのにね~(大笑い)

勝手に解釈する人は、魏志倭人伝自体が信用してないのも同じなのに!

 

福岡付近が伊都國であった事には、九州説畿内説とも、皆様異論が無いようなので、福岡を起点に100km付近の南から東の間を探索してみては如何でしょう?

 

この間しか邪馬台国は存在していません! 

(東南が東に近い方位、私の感覚では東より東南の間はすべて東南で、南とは東南から南までの間の方位全てを記述しているのではないかと?)

天草も長崎も範囲外になります。

↑福岡から半径100km以内に!黄色い線が100km!(直線距離で70~85kmではないでしょう?)

実際の道のりは直線では無いので1500里=112.5kmも範囲内に!

 

山門郡もぎりぎり入りますね!記紀に登場する山門!秘匿された何かが臭いませんか?

 

邪馬台国畿内説を唱える学者さんがいること自体信じられませんよね。

どうして残り1300余里で畿内までたどり着けるんでしょうね(大笑い)

四則演算が出来ない学者さんには、小学校で算数の再学習が必要かもね(大笑い)

 

           **  探索  ** 

 例えばちょっと近いですが日田市!卑弥呼の墓らしき大きさの墳墓が!おまけに中津市との間に耶馬渓もあります。(耶馬渓は後から付けられたとの話・なんで邪馬なのか釈然としませんが)

拡大↓

 

以死大作冢徑百餘歩=半径100歩の”冢”を作る 円墳!↑の写真は日田市の丸山(月隅山)、戦国時代城に改造されたがまぎれも無い円墳!(私の最有力候補)

 

例えば熊本北熊本サービスエリア傍の弁天山と二塚山、合志塚も有ります!一緒の時代ならひょっとして!距離も直線ならぴったしなんですがちょっと遠いかな!

 

貴方も福岡から60~100km圏内の円墳らしき岡を探索してみてはいかがですか。

世紀の大発見になるやも知れませんよ!(笑)意外と無いのに唖然となさるかも!

 

とにかくヒントは魏志倭人伝に!伊都国と邪馬台国を結んだ後方は峻嶮な山か海!

邪馬台国の統治範囲は北から北西の間です。

宇佐や大分、別府には円墳が見当たりませんでした。

卑弥呼の後を継いだのは台与とよ)!豊の国の始まりだと思いません!

豊の国の中心こそ邪馬台国なのでは無いでしょうか?

 

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