何回も書きますが、魏志倭人伝にはちゃんと邪馬台国までの距離が書いて有るじゃん!
”自郡至女王國、萬二千餘里”!自分勝手に解釈してもダメっすよ!
なんでこんなむちゃくちゃな解釈がまかり通るんでしょう?
近畿地方の銅鏡・銅鐸なんて後から移動したに決まってるのにね!
学者さんにも困ったもんだ!
「倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東到 其北岸狗邪韓國七千餘里」
「倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑をなす。旧百余國。漢の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十國。
郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓國をへて、あるいは、南しあるいは東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里」
残りは五千余里しか有りません!
「始度一海千餘里 至對海國 其大官曰卑狗副曰卑奴毋離所 居絶島方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴」
始めて一海を渡ること千余里、対馬國に至る。その大官を卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。居る所絶島にして、方四百余里ばかり。土地は険しく深林多く、道路はきんろくのこみちの如し。千余戸有り。良田無く、海物を食いて自活し、船に乗りて南北に市てきす。
対馬までで残りは四千里!
「又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗副曰卑奴毋離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食亦南北市」
又南に一海を渡ること千余里、命けてかん海と日う。一大國に至る。官は亦卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。方三百里ばかり。竹木そう林多く、三千ばかりの家有り。やや田地有り、田を耕せどなお食足らず、亦南北に市てきす。
残りは三千里になっちゃいました!
「又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前 人好捕魚鰒 水無深淺皆沈没取之」
又一海を渡ること千余里、末盧國に至る。四千余戸有り。山海にそいて居る。草木茂盛して行くに前人を見ず。好んで魚ふくを捕うるに、水、深浅と無く、皆沈没して之を取る。
日本に着いたら残りは二千里になっちゃいましたよ!
ここまでは誰も意義を唱えていませんから、邪馬台国までは末盧国から最大で二千余里なんです!
近畿説は最初から成り立ちません!
学者って四則演算が出来ないらしい!(大爆笑)
単純に言えば末盧國を起点に一大國との2倍距離(約80~120KM、最大でも150KM)以内に邪馬台国はあると記述してあるのですから近畿は絶対に無理なんですよ!(爆笑)
「東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 世有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。官を爾支と日い、副を泄謨觚・柄渠觚と日う。千余戸有り。世王有るも皆女王國に統属す。郡の使の往来して常に駐る所なり
日程に組み込まれていたなら残り千五百里!
どう考えても伊都國が東南に当るには末盧國が今の唐津より北になければなりません!文字通り松浦半島の突端だったのかも?
「東南至奴國百里 官曰?馬觚副曰卑奴毋離 有二萬餘戸
東行至不彌國百里 官曰多模副曰卑奴毋離 有千餘家」
東南のかた奴國に至ること百里。官をシ馬觚と日い、副を卑奴母離と日う。二萬余戸有り。 東行して不彌國に至ること百里。官を多模と日い、副を卑奴母離と日う。千余の家有り。
残り千三百里!ここまでは方向・到着地・距離の順で記述してあります!
邪馬台国論争の最大の争点が
「南至投馬國水行二十日 官曰彌彌副曰彌彌那利 可五萬餘戸」
南のかた投馬國に至る。水行二十日。官を彌彌と日い、副を彌彌那利と日う。五萬余戸ばかり有り。
この段落と下記の邪馬台国までの日程を到着までの間に入れるのかで大きな論争になっているのですが入れるなら急流の川上り?私に言わせれば距離か書かれていないので伝聞として無視すべきでしょう!
(本当に投馬国に行ったなら前の不彌國は内陸部ですから川を船で行く事になります!相当の急流を遡らない限り1300里を20日も掛かるなんてく有りえません!それにプラスして下記の行程!)
「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮 可七萬餘戸
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳・・・・自郡至女王國、萬二千餘里」
南、邪馬壱國に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。官に伊支馬有り。次を彌馬升と日い、次を彌馬獲支と日い、次を奴佳テと日う。七萬余戸ばかり有り。女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の某國は遠絶にして得て詳らかにすべからず・・・・郡より女王国まで一万2千余里!
近畿か九州かなんて論争は起きっこないんですが!
この段落の水行十日陸行一月も色々の解釈がされていますが残り2千里しかないのですから、それを念頭に考えなければ空想です!
学者さんの自分勝手な解釈は色々ですね!”水行なら10日、陸行なら一月”とも解釈出来ますが、たった120~130kmをそんなに掛かるとは思えませんよね!
ましてや末盧国からでも”水行十日+陸行一月”なら近畿まで行けるなんて説は残り2千里ですから論外です!
注目すべきなのは、この距離の無い日程表は最初の段落では書かれていません!距離が書かれていないのは99.99999%伝聞ですよ!
記述した随行が全日程の客観的(伝聞)日数を書いたんだと判断して良いと思いますね!ガイドラインみたいなものでしょう!
前述の投馬国への日数も同じでガイドラインみたいなものなのでしょうね!
つまり順風満帆なら、郡から水行10日陸行一月の日数で邪馬台国に着けると!
実際はこうじゃなかったんでしょうね!
基本的な問題から考えてみましょう!
後ろの段落に、「倭地温暖冬夏食生菜」と有ります!
邪馬台国の有る倭国は温暖で冬でも生野菜が食べられる国だった!
また「男子無大小皆黥面文身」とあり、男は大人・子供を問わず皆入れ墨をしていた!どちらかというとアイヌに近いイメージですね!しかも水中にもぐって魚を取ると!
大きな河川や海辺が近いイメージですよね!
いずれにしても邪馬台国は下の円の中(半径2千里以内)で発掘を待っているのでしょうね!中身は移されてほとんど空でしょうが!
私は日田市を一番候補に上げますね!
なぜ日田市かと言うと・・・
一、戦乱の後、女王として住居を構えるには、平地に造るより要塞堅固な地を選ぶ筈だと思うからです。
二、日田市は筑紫平野から一歩入り、後ろに神々しい阿蘇・九重・由布岳の三火山を頂く火の国”山門”として相応しい場所と言えるからです。
三、飛鳥三山(畝傍・耳成・香具山)に匹敵する≪日隅・月隅・星隅≫の三隅三山もあります。
ヤマト東遷説を考えた時、なぜ宣化天皇(535年即位)が本格的大和朝廷として日田市に似た奈良盆地の辺鄙な飛鳥(明日香)に都を造成した謎も解けるからです!
明日香の地は、日本最古の神社とも言える三輪(大神)神社の御神体三輪山を望む場所でもあります! 輪山とはカルデラです!
日田を推古するのも最適なばしょだったともいえます!
日田市にある月隈の永山城跡が卑弥呼の塚なのかもね!
ロマンとしては阿蘇や高千穂なんて素晴らしいと思うのですが、実質的官僚組織があった伊都国(伊都国宮地嶽神社辺り?城塞として丘の上に造られていた筈)への指令・伝達を迅速に行うには交通の便利さ=川下りも必要だったと思うからです!
日田市からは筑後川を船で下り久留米市から宝満川を遡れば大宰府ですから意外と行きの便はいいですものね!
問題は魏志倭人伝では邪馬台国からみた北方の国々について記述していますが日田市の北はほとんどが山深き山間部!
方位が45度ずれればドンピシャなんですが・・・
方位が正しいとすれば・・・・久留米市の南に行った気高き場所となれば筑後国一の宮高良大社しか有りません!
高良大社が霊験あらたかな卑弥呼の祭祀場所だとすれば話は簡単!交通の便良し、当時九州一の大都市に相応しい立地条件に恵まれた豊かな土地ですから・・常識過ぎて!(苦笑)
”やまと”を山々の突端の意味だと解釈すればこちらもドンピシャですが飛鳥との整合性が取れません!
それに戦乱の後、平野の真ん中に住居を構えるなんてことはしないですよ!
私は推古天皇は三隅(日田)王朝の末裔だと思っていますが、皆様はどう思もわれます?
天皇家で 神の名を諡(おくりな)された皇族は初代・神武天皇、10代・崇神天皇、15代・応神天皇と応神天皇の母・神功皇后(170~269)しかいません!
この4人は神話の世界!虚実混合の物語!
卑彌呼が女王になる前は70~80年も乱れていた=乱世!
卑弥呼が没した(247年)後も乱れ、卑彌呼宗女壹與(13歳)が女王ななって収まったとの記述も!
「卑彌呼以死 大作家 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與 年十三為王 國中遂定 政等以檄告喻壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹」
卑彌呼や壹與が女王で有った期間は、神功皇后が仲哀天皇亡き後応神天皇が即位するまでの間実質女王だった期間とダブります!
壹與が没した後、倭国が乱れに乱れた戦国時代に突入したのは間違いないでしょう!
宣化天皇が即位するまで、皇居は天皇が変わるたびに移され続けていました!
まるで力のある豪族が実力で日本国王の座に就いたように!
250年近く下剋上の時代が続いたのでしょう!
穢れを忌み嫌ったからだなんて頓珍漢もいますが、それは仏教が根付いてから・・・
戦乱で歴史書?も消え、推古朝になってようやく旧辞・帝紀の歴史編纂が出来るようなり、後年日本書紀・古事記の編纂が始まる訳ですが、宣化天皇以前の物語は虚実混合で逸話物語といって良いでしょう!
しかし日本書紀・古事記も歴史物語も、萬世一系の天皇家は九州から大和にやってきた末裔と明快に記述しています!
応神・仁徳陵の大きさは世界有数ですから、250年の歳月を費やして、中国・韓国の帰化人の技術も消化して、中央集権がようやく構築出来たのでは!
推古朝で絶大な権力を持った蘇我氏が全てを物語っているのです!
われ(我)!よみがえり(蘇)!飛鳥の地で!と
明日香の地に住む蘇我氏はそれこそ”飛ぶ鳥を落とす勢い”で大豪族になった!で、明日香=飛鳥なんちゃって!(笑)
蘇っても、すぐに帰化人・鎌足に天誅されてしまうのですが・・・推古とは”昔の事柄をおしはかることだそうで”・・・
いまこうやって書いたり観て頂いてる事そて自体が推古してるって訳ですな~(笑)