素晴らしきかな日本人 by 小早川俊一

御覧戴いてありがとうございます。2010年3月著名人・CM以外のブロガーを締め出した”イザ・ブログ”からあちこちテスト投稿後、過去のイザ・ブログ原稿と一緒にライブドア・ブログに移行しました。名も無きブロガーの悲哀ですね(笑)2013年は20年毎に行われる、お伊勢さまの第62回式年遷宮!これからの20年は弱者優先だった”米の座”から"働かない者食うべからず"の”金の座”に”ご遷移”されましたので[才覚次第で大金持ちになれる]チャンスに溢れる激動の弱肉強食の時代となる筈です! 人類史上[誰でも何でも平等]なんて国家が繁栄した事はなく、官庁.学校.企業も解雇も出来ず努力もしない低レベルの輩が大手を振ってのさばってる日本に明るい未来はあるのでしょうか?もっと競争原理を容認し”ジャパン・ドリーム”が実現する社会にしてほしいものです!

邪馬台国再考

③邪馬台国の場所は?答えのキーは、一万2千余里と【火の国】の女王!熊本県八代(やしろ)=社(やしろ)で決まり!だけど・・・・・・

邪馬台は”あまと”だった? 海女都?海人都?⇒天都となり、天の都として相応しい高千穂が天孫降臨の地と定められのではないのか?
神武東征は、日向からスタート!
しかし、それなら五ヶ瀬川河口の延岡が神武天皇のスタート地点にならなきゃおかしいでしょ!

もしも本当に宮崎県日向地方だとすると、大淀川上流 都城が高天原だった?
http://livedoor.blogcms.jp/blog/kobayakawashunichi/article/edit?id=1051753404
都城は、イスラエルの古都・エルサレムと同緯度に有るんですよね!
ソロモンの神殿を模したと思われモリヤ山山麓の諏訪大社は、エルサレムと同じ標高です!
失われた聖櫃(アーク)は、剣山にあるのか?はたして諏訪湖の湖底に眠っているのか?


藤原氏が改竄した日本の歴史!真実と偽装が複雑に入り組んでいるんでしょうね!
私としては、【都城】が邪馬台国に比定されるとユダヤ・イザヤが日本に来た証明になるのですが・・・

志倭人伝の記述では、卑弥呼の都はどう考えても海岸線の近くです!
熊本県八代=社にあったのは間違いないと思うのですが、比定の根幹をなす上陸地点が今の唐津では壱岐から近すぎて万人が納得する千里に合致しません!

壱岐には原の辻遺跡が発掘され一大國の中心部だったと比定されました!
原の辻遺跡2
船着場跡らしき遺跡も発見され・・・・・使節団は直接上陸出来たんでしょうか?

又渡一海千餘里 至末廬國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沈没取之 

末廬國は四千餘戸ですからそれなりの大きな港だっと考えられます。
唐津の名は、唐の時代以降に中国との貿易港として呼ばれたもので古名は松浦(まつら)!

残念ながら、今の唐津港以外に末廬國の候補地として挙げられる場所がありませんでした!
末廬國候補マップ
伊万里市が距離的には千里に近い様ですし、山と海が近く潜るにも適した島も多いと一番の候補地にしたいのですが浜がありませんし、東南の600里(約46km)の奴国は有明海の中!
博多湾では、今度は日田市になっちゃうし東は山中で不彌國が比定出来ない
佐世保市は明治まで鄙びた漁村に過ぎませんでしたし、松浦市も昭和の合併で誕生した新しい名前ですし、古名の”まつら”は現在の唐津市なのですから末廬國は現唐津で確定して良いと思いますね!

唐津=末盧國u
なにせ魏志倭人伝には、一大國から末廬國までの方位が記されていません!

海女発祥の地としての鐘崎を距離だけで末廬國とする説もありますが、鐘崎だったら東と書かれていたでしょうし、とても四千餘戸を有する大きな港が有ったとは思えませんね!
そもそも火の國外ですし・・・・・全員が海に潜れるほど穏やかな海岸とは思えませんから・・・

末廬國までの方位を記さない理由は2つだけ!
1、途中で2~3回方位を変えざるを得なかったので方位を記述しなかった!
2、対馬同様明らかだった
!(対馬へも方位なし 始度一海千餘里 至對馬國
いずれにしても、壱岐から唐津間で1千余里(77km以上)も掛かるそんな航海が有り得たのでしょうか?
この謎が解ければ邪馬台国論争にケリが着くのですが!
唐津を否定する人達は、総じて直線距離をもって近過ぎると断定してます。
しかし郡から
狗邪韓國まで七千餘里を海岸線に沿って記述してる事からも壱岐~唐津間も実際の航行距離だったと考えるべきです!
勝本から西の航路を取るとほぼ千里(77km)なんですね!

壱岐-唐津西航路
この航路だったと証明されれば、邪馬台国=八代で確定なんですがね~!
壱岐の勝本港からは、狭い島の間を抜ける東の航路を取るより

壱岐勝本港
西の航路を取った可能性は十分ありますし・・注目すべきは勝本港近くの赤丸の場所!
壱岐古代港跡?1
もし、昔から有ったなら天橋立のミニュチュア版?
天の橋立
天橋立は悪天候時の避難場所でかつ安心して飲める【真名井の霊水】の補給地だった所ですね!
壱岐は中継地ですから古代ならこの小さな入り江も重要な港だったのではないでしょうか?

しかし、【原の辻遺跡】まで10kmもあります!【原の辻遺跡の船着場】に直接横付したんでしょうか?
そうなるとますます、唐津との距離が近くなっちゃいます!
でも、【
原の辻遺跡】が壱岐の中心だったらもっと発展してます!その後廃墟になる筈がありません!
なぜ捨てられたんでしょうね!
港で重要なのは、古今東西水の補給です!
やはり西側のこのミニュチュア天橋立に中継港があって西の航路を使節団が使ったと思います!
近くに昔の湧水か井戸があったなら証明する事にもなるのですが・・・・・・・

私としては、この結論は喜ぶというより残念な結果だと思ってます!
邪馬台国は、阿蘇カルデラや高千穂に有った方が神々しいいですもんね!
剣山山頂付近ならなおさら・・・・・


吉野ヶ里遺跡=伊都国の傍には田手川が流れて筑後川と合流します!
伊都国から邪馬台国が用意した船に乗って・・・・・
急流じゃなければ船旅の方が速くて安全ですからね!
全工程と見做してた、水行十日 陸行一月は船なら10日、陸を歩くと1ヶ月の意味だったりして?
いきなり邪馬台国の記述になるのもこの船旅の所為なのかも?

1万2千余里を帯方郡から直線距離にして、邪馬台国を比定する試みも多くなってきました!GoogleEarthを使えば誰でも簡単に探索出来ますからね!
しかし、肝心要のスタート地点帯方郡のあった場所が確定していません!
そもそも、直線距離ならわざわざ帯方郡から海岸線を航行した距離や陸行の距離なんて記述しないでしょ!(苦笑)
狗邪韓國まで七千餘里(約540km=1里77m)ですが、帯方郡を北朝鮮の沙里院やソウル近郊が候補に上がってますけれど、逆算すると、スタート地点は韓国の米軍基地辺りになります!
帯方郡?
山東半島とも至近距離なのですが・・・・・・

さ~ここから直線距離で東南に1万2千余里=924km(1里77m)以上を計ってみて下さい!
邪馬台国は東南の大海の中に有り!(大爆笑)
直線距離で邪馬台国を探索するのは、意味ないと思いますが、以前の私みたいに皆ご勝手な解釈してますからね!(苦笑)

日本神話をシュリーマンみたいに解いて、日本のトロイ・邪馬台国を発掘するの人は現れるのでしょうか?
ホメロスと違って、日本書紀は日本の歴史を改竄してると思いますね!
天皇家の歴史は、イザヤ来訪以来の歴史!

天皇家のスタート地点、日向が本当なら、エルサレムと同じ緯度にある都城が【ユダヤから失われた聖櫃を携えて日本に来たイザヤの基点】である筈で、邪馬台国も八代ではなく日向を流れる大淀川上流の都城だったらと思っていたのですが・・・・
魏志倭人伝を読む限りでは、残念ながら都城が邪馬台国では無いようです!

イザヤが最初に目指したのは、エルサレムと同じ緯度だった筈で・・・・・
次がエルサレムと同じ標高の諏訪だったのか?
諏訪と都城の中間が剣山で御輿・神輿の担ぎ上げの原点だし・・・・・神輿はイザヤ以来綿々と秘匿された失われた聖櫃(アーク)を真似たものなのでしょう!

どうやら神武東征はイザヤの末裔が聖櫃と共に東遷した伝説であり、卑弥呼の時代よりずっと前の出来事だったのかも!
この伝説とヤマト東遷が重ね合わされて出来上がったのが、古事記であり日本書紀だったりしてね!
日本書紀にも神武天皇と長脛彦は同じ天孫系だって書いてるし・・・・・
藤原家の始祖・中臣の鎌足も朝鮮に残っていたユダヤ系渡来人だったのかも・・・・
歴史を改竄する為に、蘇我氏を焼き討ちしたりして・・・・・・

とにもかくにも、日本書紀の記述は何処までが真実なのか・・・・古事記との相違点で炙り出すしか方法は無い様で・・・・・・
いつの日か、タイムマシンが発明されて、真実が明らかになるのかもね!

①邪馬台国の場所は?答えは一万2千余里!

魏志倭人伝にちゃんと書いてあります!帯方群から卑弥呼の邪馬台国までの距離が!

 

郡よりその北岸狗邪韓國に至る七千余里 

12,000余里-7,000余里=5,000里+-

 

始めて一海を渡ること千余里、対馬國に至る

5,000里-1,000余里=4,000里+-

 

又南に一海を渡ること千余里、.....一大國に至る

4,000里1,000余里3,000里+-

 

又一海を渡ること千余里、末盧國に至る

3,000里1,000里=2,000里+-

 

東南のかた陸五百里にして、伊都國にる(到着の到を使用!ここまで来た事は文面から確実)

2,000里-500里=1,500里+-

 

東南のかた奴國に至ること百里 (文が無いので紹介文では?とも)

1,500里-100里=1,400里+-

 

して不彌國に至ること百里。(伊都國の後の紹介記述は伝聞とも解釈も出来ますね!)

1,400里-100里=1,300里+-

 

南のかた投馬國に至る。二十日。←これが問題!

不彌國(伊都國起点とする方が自然です)から投馬國までは水行二十日かかるのでしょう。(畿内派の方は、行文があるので実際に行ったとの根拠にしてますがね)

 

 

南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。.......七萬余戸有り。女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の某國は遠絶にして得て詳らかにすべからず。

(北は女王国に統属されていたが、邪馬台国の南は遠く情報が無いと書いていますね!ということは邪馬台国の南は山岳地帯か海ということですよね!) 

 

次に斯馬國有り。次に己百支國有り。次に伊邪國有り。次に郡支國有り。次に彌奴國有り。次に好古都國有り。次に不呼國有り。次に姐奴國有り。次に対蘇國あり。次に蘇奴國有り。次に呼邑國有り。次に華奴蘇奴國有り。次に鬼國有り。次に為吾國有り。次に鬼奴國有り。次に邪馬國有り。 次に躬臣國有り。次に巴利國有り。次に支惟國有り。次に烏奴國有り。次に奴國有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。

その南に狗奴國有り。男子を王となす。その官に狗古智卑狗有り。女王に属せず。郡より女王國に至ること萬二千余里。

 

残り約1300里に水行10日陸行一月も掛かるのでしょうかね?この日数の解釈は常識的に全行程でこれだけ掛かったと解釈すべきですよ!

 まして投馬國までの水行20日をプラスしたらわずか1300里(約100km)を水行一月陸行一月も掛かる事に!無茶苦茶なでっちあげですよ!年金の試算並み!(大笑い)

 

消去法で投馬國までの定期航路が不彌國から出ていたと解釈して良いと思いますね。

(但し、伊都國から邪馬台国までの距離を記述したとすると水行で10日又は陸行で一月となると話は別になります!伊都國から投馬國までの半分は水行10日大分県にその名も中津(市)があります) 

 

邪馬台国は不彌國伊都國起点でも同じから約1300里(約100km)のところにあった!と記述されているのですから、畿内(奈良県?)なんて残念ながら有りえません!

 

基準となる距離は対馬國から一大國までの距離から3割増しまでの距離としますと

 

対馬から壱岐まで約75km=千余里ですから、3割増しは97.5km以下で邪馬台国!

伊都國までしか実際に行かなかったとしても約1,500里以下=112.5km以下!

 

邪馬台国は不彌國や伊都國から約100km圏内にあったになりますよね。

(奴國までの距離を入れても入れなくとも大差無い)

 

これは動かせない絶対的基準なのですが、勝手に水行20日陸行一月も掛かるとは!自分勝手な解釈以外の何物でも無いのにね~(大笑い)

勝手に解釈する人は、魏志倭人伝自体が信用してないのも同じなのに!

 

福岡付近が伊都國であった事には、九州説畿内説とも、皆様異論が無いようなので、福岡を起点に100km付近の南から東の間を探索してみては如何でしょう?

 

この間しか邪馬台国は存在していません! 

(東南が東に近い方位、私の感覚では東より東南の間はすべて東南で、南とは東南から南までの間の方位全てを記述しているのではないかと?)

天草も長崎も範囲外になります。

↑福岡から半径100km以内に!黄色い線が100km!(直線距離で70~85kmではないでしょう?)

実際の道のりは直線では無いので1500里=112.5kmも範囲内に!

 

山門郡もぎりぎり入りますね!記紀に登場する山門!秘匿された何かが臭いませんか?

 

邪馬台国畿内説を唱える学者さんがいること自体信じられませんよね。

どうして残り1300余里で畿内までたどり着けるんでしょうね(大笑い)

四則演算が出来ない学者さんには、小学校で算数の再学習が必要かもね(大笑い)

 

           **  探索  ** 

 例えばちょっと近いですが日田市!卑弥呼の墓らしき大きさの墳墓が!おまけに中津市との間に耶馬渓もあります。(耶馬渓は後から付けられたとの話・なんで邪馬なのか釈然としませんが)

拡大↓

 

以死大作冢徑百餘歩=半径100歩の”冢”を作る 円墳!↑の写真は日田市の丸山(月隅山)、戦国時代城に改造されたがまぎれも無い円墳!(私の最有力候補)

 

例えば熊本北熊本サービスエリア傍の弁天山と二塚山、合志塚も有ります!一緒の時代ならひょっとして!距離も直線ならぴったしなんですがちょっと遠いかな!

 

貴方も福岡から60~100km圏内の円墳らしき岡を探索してみてはいかがですか。

世紀の大発見になるやも知れませんよ!(笑)意外と無いのに唖然となさるかも!

 

とにかくヒントは魏志倭人伝に!伊都国と邪馬台国を結んだ後方は峻嶮な山か海!

邪馬台国の統治範囲は北から北西の間です。

宇佐や大分、別府には円墳が見当たりませんでした。

卑弥呼の後を継いだのは台与とよ)!豊の国の始まりだと思いません!

豊の国の中心こそ邪馬台国なのでは無いでしょうか?

 

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