素晴らしきかな日本人 by 小早川俊一

御覧戴いてありがとうございます。2010年3月著名人・CM以外のブロガーを締め出した”イザ・ブログ”からあちこちテスト投稿後、過去のイザ・ブログ原稿と一緒にライブドア・ブログに移行しました。名も無きブロガーの悲哀ですね(笑)2013年は20年毎に行われる、お伊勢さまの第62回式年遷宮!これからの20年は弱者優先だった”米の座”から"働かない者食うべからず"の”金の座”に”ご遷移”されましたので[才覚次第で大金持ちになれる]チャンスに溢れる激動の弱肉強食の時代となる筈です! 人類史上[誰でも何でも平等]なんて国家が繁栄した事はなく、官庁.学校.企業も解雇も出来ず努力もしない低レベルの輩が大手を振ってのさばってる日本に明るい未来はあるのでしょうか?もっと競争原理を容認し”ジャパン・ドリーム”が実現する社会にしてほしいものです!

日本史再考

③邪馬台国の場所は?答えのキーは、一万2千余里と【火の国】の女王!熊本県八代(やしろ)=社(やしろ)で決まり!だけど・・・・・・

邪馬台は”あまと”だった? 海女都?海人都?⇒天都となり、天の都として相応しい高千穂が天孫降臨の地と定められのではないのか?
神武東征は、日向からスタート!
しかし、それなら五ヶ瀬川河口の延岡が神武天皇のスタート地点にならなきゃおかしいでしょ!

もしも本当に宮崎県日向地方だとすると、大淀川上流 都城が高天原だった?
http://livedoor.blogcms.jp/blog/kobayakawashunichi/article/edit?id=1051753404
都城は、イスラエルの古都・エルサレムと同緯度に有るんですよね!
ソロモンの神殿を模したと思われモリヤ山山麓の諏訪大社は、エルサレムと同じ標高です!
失われた聖櫃(アーク)は、剣山にあるのか?はたして諏訪湖の湖底に眠っているのか?


藤原氏が改竄した日本の歴史!真実と偽装が複雑に入り組んでいるんでしょうね!
私としては、【都城】が邪馬台国に比定されるとユダヤ・イザヤが日本に来た証明になるのですが・・・

志倭人伝の記述では、卑弥呼の都はどう考えても海岸線の近くです!
熊本県八代=社にあったのは間違いないと思うのですが、比定の根幹をなす上陸地点が今の唐津では壱岐から近すぎて万人が納得する千里に合致しません!

壱岐には原の辻遺跡が発掘され一大國の中心部だったと比定されました!
原の辻遺跡2
船着場跡らしき遺跡も発見され・・・・・使節団は直接上陸出来たんでしょうか?

又渡一海千餘里 至末廬國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沈没取之 

末廬國は四千餘戸ですからそれなりの大きな港だっと考えられます。
唐津の名は、唐の時代以降に中国との貿易港として呼ばれたもので古名は松浦(まつら)!

残念ながら、今の唐津港以外に末廬國の候補地として挙げられる場所がありませんでした!
末廬國候補マップ
伊万里市が距離的には千里に近い様ですし、山と海が近く潜るにも適した島も多いと一番の候補地にしたいのですが浜がありませんし、東南の600里(約46km)の奴国は有明海の中!
博多湾では、今度は日田市になっちゃうし東は山中で不彌國が比定出来ない
佐世保市は明治まで鄙びた漁村に過ぎませんでしたし、松浦市も昭和の合併で誕生した新しい名前ですし、古名の”まつら”は現在の唐津市なのですから末廬國は現唐津で確定して良いと思いますね!

唐津=末盧國u
なにせ魏志倭人伝には、一大國から末廬國までの方位が記されていません!

海女発祥の地としての鐘崎を距離だけで末廬國とする説もありますが、鐘崎だったら東と書かれていたでしょうし、とても四千餘戸を有する大きな港が有ったとは思えませんね!
そもそも火の國外ですし・・・・・全員が海に潜れるほど穏やかな海岸とは思えませんから・・・

末廬國までの方位を記さない理由は2つだけ!
1、途中で2~3回方位を変えざるを得なかったので方位を記述しなかった!
2、対馬同様明らかだった
!(対馬へも方位なし 始度一海千餘里 至對馬國
いずれにしても、壱岐から唐津間で1千余里(77km以上)も掛かるそんな航海が有り得たのでしょうか?
この謎が解ければ邪馬台国論争にケリが着くのですが!
唐津を否定する人達は、総じて直線距離をもって近過ぎると断定してます。
しかし郡から
狗邪韓國まで七千餘里を海岸線に沿って記述してる事からも壱岐~唐津間も実際の航行距離だったと考えるべきです!
勝本から西の航路を取るとほぼ千里(77km)なんですね!

壱岐-唐津西航路
この航路だったと証明されれば、邪馬台国=八代で確定なんですがね~!
壱岐の勝本港からは、狭い島の間を抜ける東の航路を取るより

壱岐勝本港
西の航路を取った可能性は十分ありますし・・注目すべきは勝本港近くの赤丸の場所!
壱岐古代港跡?1
もし、昔から有ったなら天橋立のミニュチュア版?
天の橋立
天橋立は悪天候時の避難場所でかつ安心して飲める【真名井の霊水】の補給地だった所ですね!
壱岐は中継地ですから古代ならこの小さな入り江も重要な港だったのではないでしょうか?

しかし、【原の辻遺跡】まで10kmもあります!【原の辻遺跡の船着場】に直接横付したんでしょうか?
そうなるとますます、唐津との距離が近くなっちゃいます!
でも、【
原の辻遺跡】が壱岐の中心だったらもっと発展してます!その後廃墟になる筈がありません!
なぜ捨てられたんでしょうね!
港で重要なのは、古今東西水の補給です!
やはり西側のこのミニュチュア天橋立に中継港があって西の航路を使節団が使ったと思います!
近くに昔の湧水か井戸があったなら証明する事にもなるのですが・・・・・・・

私としては、この結論は喜ぶというより残念な結果だと思ってます!
邪馬台国は、阿蘇カルデラや高千穂に有った方が神々しいいですもんね!
剣山山頂付近ならなおさら・・・・・


吉野ヶ里遺跡=伊都国の傍には田手川が流れて筑後川と合流します!
伊都国から邪馬台国が用意した船に乗って・・・・・
急流じゃなければ船旅の方が速くて安全ですからね!
全工程と見做してた、水行十日 陸行一月は船なら10日、陸を歩くと1ヶ月の意味だったりして?
いきなり邪馬台国の記述になるのもこの船旅の所為なのかも?

1万2千余里を帯方郡から直線距離にして、邪馬台国を比定する試みも多くなってきました!GoogleEarthを使えば誰でも簡単に探索出来ますからね!
しかし、肝心要のスタート地点帯方郡のあった場所が確定していません!
そもそも、直線距離ならわざわざ帯方郡から海岸線を航行した距離や陸行の距離なんて記述しないでしょ!(苦笑)
狗邪韓國まで七千餘里(約540km=1里77m)ですが、帯方郡を北朝鮮の沙里院やソウル近郊が候補に上がってますけれど、逆算すると、スタート地点は韓国の米軍基地辺りになります!
帯方郡?
山東半島とも至近距離なのですが・・・・・・

さ~ここから直線距離で東南に1万2千余里=924km(1里77m)以上を計ってみて下さい!
邪馬台国は東南の大海の中に有り!(大爆笑)
直線距離で邪馬台国を探索するのは、意味ないと思いますが、以前の私みたいに皆ご勝手な解釈してますからね!(苦笑)

日本神話をシュリーマンみたいに解いて、日本のトロイ・邪馬台国を発掘するの人は現れるのでしょうか?
ホメロスと違って、日本書紀は日本の歴史を改竄してると思いますね!
天皇家の歴史は、イザヤ来訪以来の歴史!

天皇家のスタート地点、日向が本当なら、エルサレムと同じ緯度にある都城が【ユダヤから失われた聖櫃を携えて日本に来たイザヤの基点】である筈で、邪馬台国も八代ではなく日向を流れる大淀川上流の都城だったらと思っていたのですが・・・・
魏志倭人伝を読む限りでは、残念ながら都城が邪馬台国では無いようです!

イザヤが最初に目指したのは、エルサレムと同じ緯度だった筈で・・・・・
次がエルサレムと同じ標高の諏訪だったのか?
諏訪と都城の中間が剣山で御輿・神輿の担ぎ上げの原点だし・・・・・神輿はイザヤ以来綿々と秘匿された失われた聖櫃(アーク)を真似たものなのでしょう!

どうやら神武東征はイザヤの末裔が聖櫃と共に東遷した伝説であり、卑弥呼の時代よりずっと前の出来事だったのかも!
この伝説とヤマト東遷が重ね合わされて出来上がったのが、古事記であり日本書紀だったりしてね!
日本書紀にも神武天皇と長脛彦は同じ天孫系だって書いてるし・・・・・
藤原家の始祖・中臣の鎌足も朝鮮に残っていたユダヤ系渡来人だったのかも・・・・
歴史を改竄する為に、蘇我氏を焼き討ちしたりして・・・・・・

とにもかくにも、日本書紀の記述は何処までが真実なのか・・・・古事記との相違点で炙り出すしか方法は無い様で・・・・・・
いつの日か、タイムマシンが発明されて、真実が明らかになるのかもね!

②邪馬台国の場所は?答えのキーは、一万2千余里と【火の国】の女王!熊本県八代(やしろ)=社(やしろ)!

使節団の行程を学説に従来の惑わされて、邪馬台国の最有力候補地を、日田市に比定しましたが・・・・・
肝心要の要件を満たしていませんでした!
いや~実に馬鹿な結果を述べたものです!大変失礼しました!(大反省)
日田市も盆地で防御しやすい地形と良質な材木の産地として権力者の所在地として繁栄した事は間違いない事実ですが・・・・!
昔読んだ
高木彬光作「邪馬台国の秘密」でも書かれていましたが、私同様、殆どの人が伊都国は確定していて動かせないと思ってたんですね!(苦笑)
最初から方位を無視!これじゃ辿り着ける筈が無かったといって過言ではないでしょう!

【卑弥呼】とは、卑は蛮族として卑しめた当て字なので、本来なら【火】=古来からの【火の国】の【火】なんでしょう!【弥」は【広く.あまねく】、【呼】は呼ばれるですから当て字としてはそれほど間違っていないのかもね!
多分【火御子】【火の国】を治める神の子・皇女!
日田市は、豊国!残念ながら火の国ではなかったんですね~!
距離に拘って、肝心要の要件を最初から度外視してたとは・・・・・・自分の馬鹿さ加減に唖然!
日田市は、”
復立卑弥呼宗女壹與年十三為王復立卑弥呼宗女壹與年十三為王”で即位した【壹與】の邪馬台国としての都であっったとしても・・・・
卑弥呼の邪馬台国は、【火の国】にしか存在しなかったんだから!
火の国地図赤が【火の国】!

日本国も、
火の国が源流で⇒肥⇒日へと変化したのかも・・・・

まずは予備知識のお浚いから・・・・・
倭人在帶方東南大海之中 依山㠀爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國 
 從郡至倭 循海岸水行 歷韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里 
 始度一海千餘里 至對馬國 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險 多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴 
 又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴 
 又渡一海千餘里 至末廬國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沈没取之 
 東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚 有千餘戸 丗有王 
統屬女王國 郡使往來常所駐 
 東南至奴國百里 官曰兕馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸 
 東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家 
 南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸
 
 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月  官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸 
 自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳  次有斯馬國 次有已百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國  次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國  次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有爲吾國 次有鬼奴國  次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國  此女王境界所盡 
 其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 
 自郡至女王國 萬二千餘里 


 子無大小 皆黥面文身 自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫  夏后少康之子 封於會稽 斷髪文身 以避蛟龍之害  今倭水人好沈没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以爲飾  諸國文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差 
 計其道里 當在會稽東冶之東 
 其風俗不淫 男子皆露紒 以木緜招頭 其衣橫幅 但結束相連 略無縫 婦人被髪屈紒 作衣如單被 穿其中央 貫頭衣之  種禾稻 紵麻 蠶桑緝績 出細紵 縑 緜 其地無牛馬虎豹羊鵲  兵用矛 楯 木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與儋耳 朱崖同 
 倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣 有屋室 父母兄弟臥息異處 以朱丹塗其身體 如中國用粉也 食飲用籩豆 手食 
 其死 有棺無槨 封土作冢 始死停喪十餘曰 當時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飲酒 已葬 擧家詣水中澡浴 以如練沐 
 其行來渡海詣中國 恒使一人 不梳頭 不去蟣蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人 如喪人  名之爲持衰 若行者吉善 共顧其生口財物 若有疾病 遭暴害 便欲殺之 謂其持衰不謹 
 出真珠 青玉 其山有丹 其木有柟 杼 豫樟 楺 櫪 投橿 烏號 楓香 其竹 篠 簳桃支 有薑 橘 椒 蘘荷 不知以爲滋味 有獮猴 黒雉 
 其俗舉事行來 有所云爲 輒灼骨而卜 以占吉凶 先告所卜 其辭如令龜法 視火坼占兆 
 其會同坐起 父子男女無別 人性嗜酒〈魏略曰 其俗不知正歲四節 但計春耕秋收爲年紀〉見大人所敬 但搏手以當脆拝 其人壽考 或百年 或八九十年  其俗 國大人皆四五婦 下戸或二三婦 婦人不淫 不妒忌 不盗竊 少諍訟 其犯法 輕者没其妻子 重者滅其門戸及宗族 尊卑各有差序 足相臣服 


 收租賦 有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之  自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史  王遣使詣京都 帶方郡 諸韓國 及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書 賜遣之物詣女王 不得差錯 
 下戸與大人相逢道路 逡巡入草 傳辭說事 或蹲或跪 兩手據地 爲之恭敬 對應聲曰噫 比如然諾 
 其國本亦以男子爲王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歷年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼  事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫壻 有男弟佐治國  自爲王以來 少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食 傳辭出入  居處宮室 樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衞 
 女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種  又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里  又有裸國 黒齒國 復在其東南 船行一年可至 
 参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里 


 景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都 
 其年十二月 詔書報倭女王 曰 

「制詔親魏倭王卑彌呼 
 帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米 次使都市牛利 奉汝所獻男生口四人 女生口六人 斑布二匹二𠀋 以到 
 汝所在踰遠 乃遣使貢獻 是汝之忠孝 我甚哀汝 今以汝爲親魏倭王 假金印紫綬 裝封付帶方太守假授 汝其綏撫種人 勉爲孝順 
 汝來使難升米 牛利渉遠 道路勤勞 今以難升米爲率善中郎將 牛利爲率善校尉 假銀印青綬 引見勞賜遣還 
 今以絳地交龍錦五匹〈臣松之以爲地應爲綈 漢文帝著皁衣謂之弋綈是也 此字不體 非魏朝之失 則傳寫者誤也〉絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺青五十匹 答汝所獻貢直  又特賜汝紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠 鉛丹各五十斤 皆裝封付難升米 牛利 還到録受  悉可以示汝國中人 使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也」

 正始元年 太守弓遵遺建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國 拜假倭王 并齎詔賜金帛 錦 罽 刀 鏡 采物 倭王因使上表答謝恩詔 
 其四年 倭王復遺使大夫伊聲耆 掖邪狗等八人 上獻生口 倭錦 絳青縑 緜衣 帛布 丹木 𤝔 短弓矢 掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬 
 其六年 詔賜倭難升米黃幢 付郡假授 
 其八年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 說相攻擊狀 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之 
 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喻壹與 
 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹


古来の距離測定は、意外と正確だった事が判って来ました!
皆、勝手に魏志倭人伝に記された方位を自分の都合良く解釈してますが・・・・
距離と方位を正しいとして、単純に魏志倭人伝を再考察してみたら、とんでもない結果が!
それでは、ご一緒に邪馬台国に行ってみましょう!


魏志倭人伝に書いてあります!自郡至女王國 萬二千餘里!

帯方群から卑弥呼の邪馬台国までの距離が!924km+(短里・1里=77m) 

郡よりその北岸狗邪韓國に至る七千余里 

12,000余里-7,000余里=5,000里

 

始めて一海を渡ること千余里、対馬國に至る

5,000里-1,000余里=(3,950~4,000里)

 

又南に一海を渡ること千余里、.....一大國に至る

(3,950~4,000里)1,000余里=(2,850里~2,950里)

 

又一海を渡ること千余里、末盧國に至る

(2,800里~2,950里)1,000里余里=(1,800里~1,900里)

 

東南のかた陸行五百里にして、伊都國に(到着の到を使用!ここまで来た事は文面から確実)

500里=38.5km!
東南に位置する丁度その場所で、
後年大規模集落跡の【吉野ヶ里遺跡】が発見されました
吉野ヶ里遺跡
吉野ヶ里が【ヒミコの都】だったのかといえば、答えはノーです!
吉野ヶ里遺跡は、魏志倭人伝に書かれた末盧國からの記述にピタリ当て嵌まる【伊都国】なんですね
大規模な環濠を巡らした軍事拠点の伊都国だった可能性が99.9999%
残り、(1,800里~1,900里)-500里=1,300里~1,400里(100.1km~107.8km)

 

東南のかた百里(約8km)にして奴國に至る 
文が無いので紹介文では?との説もありますが、私もその説に同感!)

して百里にして不彌國(約8km)に至る 
高良神社
不彌國と見做されるところには・・・・筑後国一之宮・高良神社があります
ここまで来たなら、邪馬台国まで残りは1,100里(84.7km)~1,200里(92.4km)
南のかた投馬國に至る。二十日!←これが問題!
残り100km未満なのに、船で20日は掛かりませんよね!
しかも不彌國~邪馬台国の間に位置する事になっちゃいますから、もっと距離は近い!(大苦笑)

(畿内派の方は、行文があるので実際に行ったとの根拠にしてますがね)
私は【郡使】を置いていた国を記述したと解釈しました!

皆統屬女王國 郡使往來常所駐 
 東南至奴國百里 官曰兕馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸 
 東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家 
 南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸
がどこを指すかです!末盧國と伊都國の僅か末路国や2カ国と指している筈がありません!
以下の国も皆女王の国属して郡使いが行き来していると解釈すべきです!

後述で、”伊都国には特別に【一大率】を置いていた”と書かれているので、【率】を配置していた地区を記述したんでしょう!
穀倉地帯奴國を伊都国と不彌國に兵を置き強固に重要な穀倉地帯を守っていたんじゃないでしょうか?
よって、伊都国から、直接邪馬台国へ向かった考えました!

南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。.......七萬余戸有り。女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきもその余の某國は遠絶にして得て詳らかにすべからず。

北は女王国に統属されていたが、その他は遠く詳しい情報が無いと書いていますね!ということは邪馬台国の南も東も山岳地帯か海ということです!) 

 

次に斯馬國有り。次に己百支國有り。次に伊邪國有り。次に郡支國有り。次に彌奴國有り。次に好古都國有り。次に不呼國有り。次に姐奴國有り。次に対蘇國あり。次に蘇奴國有り。次に呼邑國有り。次に華奴蘇奴國有り。次に鬼國有り。次に為吾國有り。次に鬼奴國有り。次に邪馬國有り。 次に躬臣國有り。次に巴利國有り。次に支惟國有り。次に烏奴國有り。次に奴國有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。

その南に狗奴國有り。男子を王となす。その官に狗古智卑狗有り。女王に属せず。郡より女王國に至ること萬二千余里。

 

残り約1300里に水行10日陸行一月も掛かるのでしょうかね?この日数の解釈は常識的に全行程でこれだけ掛かったと解釈すべきですよ!

 まして投馬國までの水行20日をプラスしたらわずか1300里(約100km)を水行十日陸行一月も掛かる事に!無茶苦茶なでっちあげですよ!年金の試算並み!(大笑い)

 邪馬台国=女王の都は伊都國から約100kmにあった!

 これは動かせない絶対的基準なのですから、
水行20日、陸行一月は帯方から1万2千余里の日程=解釈すべきでしょう!
自分勝手な解釈以外の何物でも無いのにね~
(大笑い)

勝手に解釈する人は、魏志倭人伝自体を信用してないのも同じでしょ!

 

もう一つのキーワードは【ヒミコ】!
九州西北部は、古来【火の国】と呼ばれて来ました!火の国の女王なので【ヒ・ミ・コ】!
火の国 地図
単純に考えれば、邪馬台国は赤く塗られた【火の国】中に有った訳で!
邪馬台国が畿内なら、末廬國から伊都國まで田舎を陸行する必要が全くありません!
畿内へは船で移動する筈で、畿内説は最初から破綻しているのです!(大爆笑)

あまりに単純・明解過ぎて・・・・

そもそも、なぜ最初から伊都国と比定された博多湾に上陸しないでわざわざ離れた末盧國にしたのか?
長年不思議には思っていたのですが・・

私も、素人なので従来の定説となった伊都国を福岡付近に想定した学者さんの説を信じていたので・・・・
今の日田市を最有力候補に挙げてきたのですが、全く見当違いでしたね!(苦笑)
私同様、学者さん達も従来の初期行程に惑わされて、見落として来たんでしょうね!(大苦笑)
使節団は【火の国】内の港に到着し【火の国】内を移動したと考えるのが自然です!
しかし、そうなると・・・・

【火の国】は後年、肥前肥前国肥後肥後国
分割される訳ですが、火の国の人口を支えていた筑紫平野の【肥中】はなぜ無くなったのか?


肥前国の東端で筑紫平野の北端に発見された【吉野ヶ里遺跡】=伊都国は歴史上から姿を消していました!

吉野ヶ里遺跡

【肥中】は筑紫国に変貌したと考えるのが自然です!
自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國
吉野ヶ里遺跡は当時の【火の国】北部の統治を任されていた一大率の居城・伊都国
だったのでしょう!
東南至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸
東南にわずか百里(7.7km)に位置した奴国は有二萬餘戸ですから、規模は伊都国の比では有りません!
東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家

筑紫平野全体の穀倉地帯は、伊都国が支配し奴国を中心に小国=村々に分けられていたみたいですね!
日本書紀には、筑紫の君と呼ばれた
磐井氏が卑弥呼の死後250年後に乱を起したと記されていますから、磐井氏が筑紫平野の小国を統一して【火の国】から独立したと考えると、【火中】が【肥中】として存在しないのも納得出来ますね!
邪馬台国の主力が、近畿地方に移って、手薄になったが故に・・・・・・
磐井氏が伊都国の一大卒の末裔だったのか?それとも磐井氏が伊都国を滅ぼしたのか?
タイムマシンで検証でもしない限り判明しませんが、いずれにしても豊かな【
肥中】は邪馬台国から離脱したんでしょう!

伊都国=吉野ヶ里から南に1,300里(100.1km)~1,400里(107.8km)間の【火の国】のどこかに【ヒミコの都】があったことになります!
東南と記述されていたなら、距離的にも神話の街・高千穂が真っ先に候補地に挙げられるんですが!
邪馬台国マップ2
高千穂をヒミコの都=高天原とすると、神話との整合性も出てきます。
ヒミコは弟に行政を任せて象徴的存在=天皇制でしたし、熊本付近に行政府が置かれていたなら天照の弟・スサノオが高天原に会いに行く記述とも符合しますし・・・・・・・
【火の国】の由来は雲仙普賢岳・阿蘇・霧島・・・・と大きな火山を有していたからで、当然地震も多く
地鎮と統治の為に建てられた【火の国】の社を模して倭国中の断層近くに神社が建てられた・・・・・・

この神社体制の中枢がカリスマ・ヒミコだったなら、遠隔地に都を置いても統治出来た可能性もあります。
日本の神話は、事実を記述していたのかも・・・・・・って事で万々歳なのですが・・・・・
高千穂では、7万個の家屋が建てられる場所が・・・・・第一に方位も合いません


伊都国から、方位、距離から当て嵌めると・・・・八代市(町)が最大候補地に浮上します!
邪馬台国マップ3
不彌國からの1,100里(84.7km)~1,200里(92.4km)では更に合致しますけど・・・・・・
邪馬台国・比定マップ
調べると衝撃的な伝承が・・・・・・・
邪馬台国・比定マップ2
そもそも”八代”の地名由来は、”やしろ=社”だったんだってさ!
天照大神の社(やしろ)
がこの地に在ったのが由来とされていた!
なんだよ、最初から邪馬台国の答えが出てたんじゃないですか!
邪馬台国比定マップ4
邪馬台国比定マップ3png
【中の城古墳】は真北も向いていて鬼道を使い神格化された卑弥呼の墓に大きさも相応しいのですが・・前方後円墳なので、後々大和政権誕生後に新たに造られたんじゃないのかな~
邪馬台国比定マップ5
八代市山麓にあるこの古墳みたいのが、最初のヒミコの墓だったりして?
卑弥呼の墓
3世紀じゃ、まだ円墳だと思うのですが・・・・・
墓はいずれにせよ、【八代】が魏志倭人伝に記された【邪馬台国】だったと断言出来ますね!

”灯台もと暗し”じゃん!伝承を大事にしないなんて!まさに【コロンブスの卵】!(爆笑)

なんでこんな簡単明瞭な事が、大きな大論争になったのでしょう?

男子無大小 皆黥面文身 自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫 夏后少康之子封於會稽 斷髪文身 以避蛟龍之害 今 倭水人好沉没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽

邪馬台国は、顔面に刺青をし新鮮な魚を好んでと・・海に近い記述とも合致します!
(大河の可能性もありますが)

古来より怪火とされた不知火も、鬼道で人を惑わすヒミコのイメージに沿いますし・・・
湧水で名高い水島もあって!
日本の輸送手段の主力は、明治まで水運!繁栄するには近くに良港が必須なのは言うまでもありません!

八代地方には、【火の国】の支配圏だった天草諸島との連絡港として栄えた天然の良港でのもある三角港もある!
物資を船で運ぶのが主流であった古代【火の国】全体の都として
八代町をもっと発掘調査する必要があるのでは?
直接、使節団が船で訪れなかったのは、船旅のリスクを軽減するのと、火の国の内情を実際に見聞したかったからなんでしょう!
江戸時代に干潟を大規模に埋め立てたので、遺跡も破壊されてしまった可能性も大ですが!
なぜ候補地から早々に除外されたのか・・・古事記(では熊曾)や日本書紀で球磨(くま)川流域の熊襲が最後まで大和朝廷に従わなかった蛮族みたいに書かれたからでしょうか?
熊襲
の名の元になった球磨(くま)川は八代市地方の南が河口です!
神話に描かれた熊襲は、球磨(くま)川上流の人吉盆地=球磨(くま)郡を中心に勢力を持ち続けていた勇猛果敢な部族だとされ八代とは関係が無い筈なのに・・・・
実際は政権が奈良盆地に移ったあと、熊襲が旧天都を支配下にいれ、海外貿易と材木で大和朝廷の意も返さぬ程の隠然たる勢力を維持していたんでしょうけど・・・・・熊襲に故郷を奪われたとは書けませんわな!

藤原家が改竄した日本神話では、八代に全く触れず、高千穂が天都で宮崎が天皇家の発祥の地にされちゃいましたからね!
ほとんどの探求者が、八代地方を熊襲と勘違いして候補から度外視しちゃったんでしょうね!

【邪馬台国の都】が【八代】だったと比定し得る根拠がもう一つあります!
それは伊勢神宮との関連です!

邪馬台国比定
八代市は、中央構造線上にあります!
邪馬台国・比定マップ8
伊勢神宮の外宮さんも中央構造線の真上!
邪馬台国比定マップ7
伊勢神宮・外宮は、日本の
屋台骨・中央構造線の活動を鎮める、日本の最重要鎮守の社(やしろ)!
伊勢神宮外宮中央構造線
世界最大級の活火山・阿蘇山を背後に、当時、八代地方にあった社は中央構造線上にあって、卑弥呼の霊力を最大に発揮出来るパワースポットだったんでしょう!
古来からの神社ってほぼ断層上にあるワースポットなんで、自分に合った波長の神社にお参りすれば、ご利益(りやく)絶対受けられる筈!
邪馬台国比定マップ9
古代の都だった飛鳥も中央構造線の直ぐ傍にあるんですよ!
伊勢神宮の祭司は天皇の皇女でしたし・・・・日本列島を鎮め事が、卑弥呼以来受け継いでいた
天皇家最優先の伝統なんでしょうかね!

西郷(せご)どんも最終回が近づいて来ました!最後を遂げた西南戦争の最大激戦地”越すに越されぬ田原坂”も、古来から伊都国と都・邪馬台国を結ぶ街道の要所だったんでしょう!
熊本から八代までなら七萬戸は十分有りえますし・・・・・・・
邪馬台国は【火の国】熊本県八代=社にあったって事ですよ!
肝心な宮殿跡は?
邪馬台国比定マップ10
さらに・・・・もう一つ
円の中を流れる川は”氷川”です!”氷川”と言えば須佐之男命を祀る氷川神社が有名ですが、氷川の由来がいまいちはっきりしていません!出雲大社の斐伊川なんて事になってますが・・・・・・・

名曰卑彌呼  事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫壻 有男弟佐治國
八代が邪馬台国の都で、ここで卑弥呼の弟が政務を執っていたとするなら・・・なにせ、目の前が氷川です!
須佐も補佐の訛りなのかも?
当然、氷川の洪水・氾濫も抑えたでしょうし、南の日本三大急流・球磨川の河口を整備し、肥沃な干潟として河川の治水工事に卓越した手腕を発揮したが故に、天照大神の弟・須佐之男命が治水の神として祀られ、須佐之男命を祀る神社に【氷川】の名が付いたといえるのではないでしょうか!
卑弥呼は高齢と記述されているので、弟もかなり歳を取っていたんでしょうね!
更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定
弟が継いだならまだしも・・・新しい王を立てたんでしょう!
八代がいかにパワースポットといえ火の国の中心部ではありませんから、【肥中】磐井へ遷都もしたのかもね!

政務から離れた、弟・須佐之男命は、治水工事のエキスパートとして出雲・斐伊川の治水に貢献

南の球磨川河口デルタ地帯の代市宮地も中央構造線に近いので有力な候補ですが・・・・・
宮殿のロケーション的にもこちらが最有力候補でしょう!
しかし、九州横断道路工事でも全く考慮されることもなかったんだろうし・・・・
度重なる大地震で痕跡も壊滅してしまった可能性があるので、検証は大規模じゃないと無理かも知れませんね!
発見して大富豪に成れるなら、シュリーマンみたいに掘り下げるんだけど・・・・・日本じゃ名声だけだし!

余談ですが・・・・

八代地方の名産のい草は、畳表のシェア9割を誇った日本文化に無くてはならない特産品でもありました!
八代い草
八代地方は、神社や権力者と長きに渡って関係があったって事です!
邪馬台国が【い草】を通じて統治していたとは言い過ぎですが、畳は当時の高級品であり、茣蓙も含めて一種の厄除けの御利益があると信じられていた可能性もあります!

2016年の熊本地震の時に、邪馬台国=八代町に気が付かなかったのは、完全に思い込み!
視野の狭い学者さんの説を信じてしまうなんて・・・・
邪馬台国論証に終止符が打たれれば喜ばしい事ですが、学者さんて素人の説なんて絶対に認めないからね~!(大嘲笑)
宮崎康平氏の【まぼろしの邪馬台国】も、読ませて頂きましたが、方位的距離的に合致しないので惜しかったですね!

祝詞には
”豊葦原の水穂の国を 安国と平けく所知食と事依し奉き・・・・”とあります!
祝詞は、禍いを払い平穏を祈願するのが基本ですから、卑弥呼が神道の原型を造ったのかも知れませんね!
神道にはお神酒が付き物!祈願祭の後には必ず参列者全員に盃の御神酒が振舞われます!
魏志倭人伝の記述にも、父子男女無別 人性嗜酒とありますから邪馬台国では大量の酒が造られていたんでしょうね!

酒は少量なら”百薬の長ですから”・・・・祭を行う度に美味い酒を振舞っていたのかも・・・・(笑)
葦原
い草と違って、茎も硬く成長も早いイネ科の【葦】が日本中をの水辺を覆っていたのになぜ八代地方だけ?
卑弥呼時代に全国への供給体制が出来上がっていたんでしょうか?

中国からの邪馬台国への貢物だったのか?韓国経由で渡来人が持ってきたのか?
昭和の時代まで、日本家屋の要だったんですから・・・・・・・

後継台与の時代に、都が八代から葦の茂る豊国に移ったんでしょうか?
神話の東征で、近江の豊葦原が歴史の表舞台になり・・・・・・・・
度重なる大地震で、八代にあった社(やしろ)も忌み嫌われ・・・権力からも疎遠になり【い草】だけを残して太古の栄光も忘れ去られたのかも・・・・・・・

邪馬台の名も、天(あま)社(と)が、訛って記された可能性もあるんじゃないのかな~?
天都(あまと)だったのかも!
後に高天原の天照大神(あまてらす)に祭り上げられるのも”あま”が”天”を表意してたんだし・・・・
”あま”は”海女・海人”も意味する!

伊勢神宮近くの伊勢志摩の海に潜る海女は有名でした!
日本は四方を海に接している!女性が高収入を得られた海女を育成していたとすると・・・・
【火の国】のもう一つの顔が見えてきます!海洋族として大海原を自由に航行していたからこそ九州の西部全体を掌握出来たのかも!
八代市で何らかの痕跡が発見されれば一気に解決するけど・・・・・・・・
何事もSIMPLE・IS・BESTじゃ~ないの!事実は小説より奇なり!
これで邪馬台国論争に終止符が打たれた・・・・・めでたし、めでたし!と思いきや・・・・・・・
残念なことに、自画自賛するこの説には大きな欠点が在るんですね!
間違いなく邪馬台国は八代市だったと確信しているのですが・・・・・
それは従来説の松浦郡唐津付近を上陸地点としている為、一大國と末廬國との距離が曲線を描いても約55km=800里と短すぎて合致しません!

従来説が、いい加減過ぎてるからですが・・・・・
八代市を邪馬台国と比定した上で、上陸地点を再度検証してみましょう!
末廬國が異なると当然伊都国も異なることに!
③に続く・・・・・

そういえば、西郷どんを見てて思ったのは、坂本竜馬を暗殺した黒幕は、大久保利通だったのかも!
自分の考える大儀の為なら、友も非情に切り捨てる!
”ボウズヲシサツセヨ”の電報で、竜馬暗殺の黒幕が大久保利通だと気が付いたんじゃないかな~!
船中八策で徳川家を残し穏便な変革を求める、非凡な才能の竜馬は大久保にとっては最大の障壁だった!
西郷も同じで立場に追い込んでしまった!
邪魔者は消せ!一番の親友に裏切られた”せごどん”の心中は・・・・・・・
明智光秀に裏切られた織田信長の心中か?

侍の象徴となった西郷にとって、自分の存在が早急に侍を無くす大久保利通の改革の最大の障壁だと悟ったんでしょうね!是非に及ばず!
陸軍大将として、装備の差を知り尽くしていた上での出兵でした!
西郷の死から1年後、暗殺された大久保利通の懐には西郷からの手紙が2通!
一緒に改革の夢を追った唯一のそして最大の理解者の形見として肌身離さず・・・・・

【日本史再考】プロローグ・蘇我馬子・蘇我蝦夷・蘇我入鹿の記述は藤原家の呪詛!生前退位の最初は大化の改新時の皇極天皇!

生前退位の最初は?
乙巳の変=【大化の改新】の後、皇極天皇(女帝)が弟の孝徳天皇に譲位したのが最初!
大化の改新(645年)中臣の鎌足主導のクーデターだったとされています!
このクーデター謎だらけ!
なんで大豪族でもなく権力も無い中臣クラスが時の権力者を暗殺しなければならなかったのか?
何故
中大兄皇子は次男坊なのに長男を差し置いて主役を演じる事が出来たのか?

律令整備の手柄は全部独り占め?律令整備の実績は【入鹿?】だった可能性も・・・・・・

クーデーター後、急激な改革をしようとした【入鹿?】が亡き者にされたのに内戦にならなかったのも、当貴族社会で大和建国以来、百済連携を重んじていたからなのかもしれませんね!
しかし、日本人であれば謀略で殺めたとすると怨霊として祟ると信じられていた時代、歴史を偽り呪詛したくらいじゃ穢れは取れません!
鎮魂の為に大規模な神社か仏閣が建てられた筈ですよ!
しかし、日本書紀にも古事記にもその様な記載は有りません!
となると・・・・・聖徳太子一族を入鹿が殺した事にされたてますが、
法隆寺は道半ばで暗殺された【入鹿?】の鎮魂寺なのではないのか?
聖徳太子は実在せず実際は【入鹿?】だったのではないのか?年代も変えてね!
聖徳太子
一方では悪者扱いで呪詛しながら、一方では希代の天才として褒め称え正式な記録に実績を残したと考えると辻褄が合います!
厩戸皇子だってキリスト誕生の逸話と同じだし、【聖徳太子】は【入鹿?】鎮魂の為に考え出された記紀の創作でしょう!(笑)

日本最初の生前譲位されたのは、鎌足に唆されて実行犯となった皇極天皇の息子・中大兄皇子(19)ではなく、夫舒明天皇の弟でした。
”韓人・が殺した”と叫んだ=犯人は日本書紀に韓国出身だと明確に書いてある!(大苦笑)
こう明(あか)ら様に書いたんじゃ、まさか藤原家の祖が韓国出身とは思わないからね!
千年以上繁栄の極みを謳歌した藤原家の生みの親・・・・・中臣の鎌足私は百済系だと思ってるんですが・・・・この時滅亡させた【蘇我蝦夷?】・【入鹿?】親子を【日本書記】で悪者に仕立てていますが・・・・
鎌足が【入鹿?】を暗殺し、【蝦夷?】を自害に追い込んだのは、【入鹿?】が百済を見限り唐や新羅と等距離外交を行っていたからではないのか?
百済と日本の結びつきは人質として百済の王子【扶余豊璋】が日本に来ていたんだし、百済出身者にとって弱体化する百済を軽んじる【入鹿?】の外交姿勢は許せなかったのではないでしょうか?

蘇我氏は、渡来者集団を統括し、一大豪族として君臨していたとされていますが・・・・・渡来者の大部分は百済出身の筈!中臣の鎌足が再び百済偏重政策で彼らの頭になったとしたら・・・・・公共事業で彼らを優遇した筈なので・・・・・・・・・

そもそも時の権力者が、稲目・蝦夷だの馬子や入鹿なんて名前を付ける筈がないのです!
稲目=我、蘇(よみがえ)りしは・・・稲の穂先に?冗談だよね!
馬子=我、蘇(よみがえ)りしは・・・馬から生まれるって?馬鹿っじゃね~の!
蝦夷=我、蘇(よみがえ)りしは・・・蛮族に?冗談だよね!
入鹿=我、蘇(よみがえ)りしは・・・鹿と獣姦する変態だって!
藤原家が、日本書紀で歴史を改竄し彼らを呪詛したんですよ!蘇我(われよみがえり)を逆手に取って!

蘇我氏とされた一族は、継体天皇(503~7?~531?)以降政治中枢の権力を握ります。
継体天皇には、即位前に大和皇族以外と子女をもうけていたそうな!
蘇我氏は即位前の息子達だったのか?
継体天皇は即位前、越前~琵琶湖~宇治川の一手に水運を握り相当の財力を蓄えていたんでしょうね!
【蘇我稲目】とされた人物も、皇位継承前に継体天皇の一族だったと考えて良いのではないでしょうか!

継体天皇は応神天皇の末裔ですから、応神時代に権勢を誇り天皇家と姻戚関係にあった葛城氏が蘇(よみがえ)ったとして蘇我氏と名乗った可能性もありますが・・・・
正に、蘇我氏は応神朝での葛城氏全盛時代以上の姻戚関係を築き比類なき権勢を誇った訳で・・・・・・中大兄皇子の別名が葛城皇子だったって?意味深ですよね!多分葛城の地で乳母に育てられたんでしょうか?天皇家は成人まで親元以外で育てられていたから・・・・

今CSの【チャンネル銀河】で武則天をやってますね!

天皇・天后を最初に呼称させた史上稀な才色兼備の女傑です!
遣唐使が【天皇】の尊称を持ち帰り、それまでの日本の大王(おおきみ・すめらみこと)を、日本書紀以降◎◎【天皇】(し、おくりな)する事になるのですが・・・・・神武から元正までの【天皇】という漢風諡号は淡海三船(722~785)が考え出したとされているので、天皇】と諡(おくり名)される様になったのは聖武天皇時代からなんですね!
つまり日本書紀完成時には、日本に【天皇】は存在せず、平安京に遷都するまでは、大君(オオキミ)・神皇(スメラミコト)であり帝(ミカド)だった!
奇書・竹内文書も神皇【スメラミコト】にしていれば偽書とは言われなかったでしょうに!(苦笑)

日本書記のどこまでが真実でどこまでが創作なのか・・・・・・・・
日本書記には、神の名の天皇が3人登場します。
神武=神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)
崇神御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)
応神誉田別尊(ほむたわけのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと)、大鞆和気命(おおともわけのみこと!
単純に考えれば、神武・崇神・応神の3天皇は同一人物なんでしょう!
応神天皇の母・神功皇后気長足姫尊(息長帯比売命=おきながたらしひめのみこと)を含めれば4人です。
神功皇后の母は葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)です。
葛城の地が応神朝天皇家に大きく関わっているんですね!

日本書紀・古事記は藤原家に都合の良いように改竄されているので悪役は善人として読み解かなければなりません・・・・・
神武天皇の紀元前660年即位は日本書記の創作ですが、神武(崇神・応神)天皇とされる東征は事実でしょう!

神武天皇の前に大和を統治していたのは・・・アマテラス(天孫)系のニギハヤヒ天照国照彦天火明櫛玉壌速日尊)です!出雲に国替えされた前王朝!
朝鮮半島南端には任那(~562年)がありました!
任那
任那は【魏志倭人伝】の狗邪韓國なんでしょうね!
戦後の韓国大統領の出身地を見ると親日派は全て旧任那!
李 承晩
(り・しょうばん)高句麗(開城近郊)没落両班(ヤンバン)出身、臨時政府、対日強行派
(ユン・ボソン)旧百済(牙山)出身、臨時政府!
朴槿恵パク・クネ)大統領の父朴正煕(パク・チョンヒ)の生まれは旧任那(亀尾)貧農出身、陸軍士官学校卒!
崔圭夏(チェ・ギュハ)旧新羅(江原道原州邑)両班(ヤンバン)出身

全斗煥(チョン・ドゥファン)は旧任那(陜川)出身!韓国軍出身、”日本に学べ”とまともな歴史認識だった!
盧泰愚(ノ・テウ)旧任那大邱)・旧新羅国境出身!
韓国軍出身
金 泳三
(キム・ヨンサム)は旧任那(巨済島)出身!対日強硬姿勢でしたが日本人の友人多数!
金大中(キム・デジュン)生まれは旧任那・百済(荷衣島)本家は旧任那加羅(金官伽耶)出身、親日家でした!
盧武鉉(ノ・ムヒョン)も旧任那・加羅(進永邑)貧農出身、小泉首相の靖国参拝で途中から対日強行路線に!
李明博(イ・ミョンバク)は、旧新羅浦項出身の父母から大坂夏の陣の家康本陣だった大阪府中河内郡加美村生まれ、対日強硬派!

崇神天皇は
任那の城から来たとも解釈出来ます!いずれにしても応神天皇時に北九州+任那軍が畿内に攻め込み葛城地区日の本日下が日本の首都があになったのではないでしょうか?
天皇の別名は帝(ミカド)・・・・・ユダヤの【失われた10氏族】の【カド族】=イザヤの末裔が日本に来たって荒唐無稽の話を証明するのが私のライフワークになってます!

http://www.page.sannet.ne.jp/kbkk/
途中書きかけのまま、もう12年以上更新していませんが・・・・・・【光陰矢のごとし】ですね!

新羅が百済を滅ぼし朝鮮半島を統一しましたが、660年に滅ぼされた百済復興を目指して663年日本が韓国に攻め入りましたが、朝鮮戦争同様、中国の援軍で【白村江の戦い】で破れ、百済が復興出来なかった時の唐の皇后!

武則天(624年~702年)が才人として唐の後宮に入り中国最初で最後の女帝になった頃、日本も藤原家の開祖・鎌足が陰謀を廻らし藤原家を公家筆頭として日本国を牛耳るまでのサクセスストーリーが展開した時代でもありました!
武則天は愚鈍な三代目高宗を篭絡し、武一族で専制を敷きましたが、中臣の鎌足も中大兄皇子を操っていたのでしょうね!
高句麗
武則天668年新羅と連携して高句麗を滅ぼすのですが、高句麗の都は平壌(ピョウヤン)と国内城(中国・集安市)
現在の朝鮮半島の対立は、北朝鮮=高句麗、韓国=新羅・百済って訳!滅亡した百済だけじゃなく高句麗からの難民も日本に来ています!
高麗神社参照!
畿内は百済系帰化人が多かったので、武蔵野国に新しく開拓民として高句麗難民を受け入れたんでしょう!
戦後、数十万人の済州島出資者等を日本に残したのも昔の百済・任那の末裔だったからなのかもね!(大苦笑)
当然武蔵野国高麗郡は美人の産地でも有った訳で・・・・・
そんな訳で武則天(則天武后)【日本史最大の謎=大化の改新】と大いなる関係が有るんですわ!

では、なぜ藤原家は蘇我氏は呪詛してまで、歴史上から消されなければならなかったのでしょう?

閑話休題
応神天皇以前の日本史は・・・・希書・竹内文書によればウキヤ王朝があったとされてますが・・・
ギザのピラミッドを経度ゼロにすると・・・・・

Google earthでさっそく調べてみたら・・・・経度の表示を度分(10進法)にするとギゼーの大ピラミッドの頂上は
東経31.08074≒31度8.0
都城市高城も東経100度(131度.81)、安土城は東経105度(136度8.3)!!(驚!)
日本のエルサレム・ソロモンの神殿を模した守屋山山麓の諏訪大社前宮は107度(138度8.0)に位置します!
なんと【日本中央】の碑はドンピシャの東経110度(131度8.0)にあるんですよ!(驚愕!)

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東北は蝦夷ではなかった?
東北の古代文明はもっと探求すべきなのかも・・・・・十和田大噴火で地下に眠っているんでしょうけど発掘されたらポンペイの遺跡どころじゃないかもね!
皆様も調べてみたら・・・・・・意外な結果に唖然としますよ!
超古代文書として、明治以降に見つかったとされる竹内文書や宮下文書、東日流外三郡誌などがあります。
偽書とされていますが・・・・・日本書紀も偽書みたいな物なんだから目くじら立てなくても・・・・・・・小説として読む価値は大いにありますよね!(大爆笑)

それはさておき・・・・・・本題に戻ると
中大兄皇子が継体天皇の地盤に遷都した大津京で【天智天皇】として即位するのは、
白村江の戦い】後の668年!大化の改新(645年)からなんと23年後の高句麗が滅亡した年です!
別の言い方をするなら、高句麗が滅亡するまで即位出来なかったって事ですよ!
これが謎解きの鍵なのかも?しかも治世はわずか4年!
皇極・斎明天皇は中大兄皇子の母ですから、民に苦役を課した大規模土木工事も朝鮮出兵を前提に全て中臣鎌足が企画したんでしょうね!
いつの世にも巨大土木工事は巨万の富を手に入れる事が出来ますよね!(苦笑)
この23年間に、
中臣鎌足は中大兄皇子を操って着々と磐石な藤原家の基礎を築いたんでしょう!
天智天皇崩御後、壬申の乱を経て天武天皇が即位し仏教を普及させるのですが、中臣鎌足が神道を守る為に起こしたクーデターだったら藤原家は天武天皇時代に没落し、千年以上も続く繁栄は出来なかった
中臣の鎌足は、【白村江の戦い】以降行方不明になった大和の人質だった百済の王子・豊璋だったとの説もあります!新羅との関係を維持するには【白村江の戦い】の総大将を逃げ帰っても生きてる事には出来なかったからね!
大化の改新から日本書紀成立までの時代は、徹底的に日本の歴史を改竄し【最大の謎】を生んだ時代だと言って過言では無いでしょう!
日本は、第2次大戦終戦まで、百済の末裔に牛耳されていた!朝鮮併合も義務教育も無く文盲も多い遅れていた朝鮮を百済末裔が日本を使って近代化を押し進めたのではないのか!
旧百済だった済州島の出身者が在日韓国人になったのも・・・・・・・

①邪馬台国の場所は?答えは一万2千余里!

魏志倭人伝にちゃんと書いてあります!帯方群から卑弥呼の邪馬台国までの距離が!

 

郡よりその北岸狗邪韓國に至る七千余里 

12,000余里-7,000余里=5,000里+-

 

始めて一海を渡ること千余里、対馬國に至る

5,000里-1,000余里=4,000里+-

 

又南に一海を渡ること千余里、.....一大國に至る

4,000里1,000余里3,000里+-

 

又一海を渡ること千余里、末盧國に至る

3,000里1,000里=2,000里+-

 

東南のかた陸五百里にして、伊都國にる(到着の到を使用!ここまで来た事は文面から確実)

2,000里-500里=1,500里+-

 

東南のかた奴國に至ること百里 (文が無いので紹介文では?とも)

1,500里-100里=1,400里+-

 

して不彌國に至ること百里。(伊都國の後の紹介記述は伝聞とも解釈も出来ますね!)

1,400里-100里=1,300里+-

 

南のかた投馬國に至る。二十日。←これが問題!

不彌國(伊都國起点とする方が自然です)から投馬國までは水行二十日かかるのでしょう。(畿内派の方は、行文があるので実際に行ったとの根拠にしてますがね)

 

 

南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。.......七萬余戸有り。女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の某國は遠絶にして得て詳らかにすべからず。

(北は女王国に統属されていたが、邪馬台国の南は遠く情報が無いと書いていますね!ということは邪馬台国の南は山岳地帯か海ということですよね!) 

 

次に斯馬國有り。次に己百支國有り。次に伊邪國有り。次に郡支國有り。次に彌奴國有り。次に好古都國有り。次に不呼國有り。次に姐奴國有り。次に対蘇國あり。次に蘇奴國有り。次に呼邑國有り。次に華奴蘇奴國有り。次に鬼國有り。次に為吾國有り。次に鬼奴國有り。次に邪馬國有り。 次に躬臣國有り。次に巴利國有り。次に支惟國有り。次に烏奴國有り。次に奴國有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。

その南に狗奴國有り。男子を王となす。その官に狗古智卑狗有り。女王に属せず。郡より女王國に至ること萬二千余里。

 

残り約1300里に水行10日陸行一月も掛かるのでしょうかね?この日数の解釈は常識的に全行程でこれだけ掛かったと解釈すべきですよ!

 まして投馬國までの水行20日をプラスしたらわずか1300里(約100km)を水行一月陸行一月も掛かる事に!無茶苦茶なでっちあげですよ!年金の試算並み!(大笑い)

 

消去法で投馬國までの定期航路が不彌國から出ていたと解釈して良いと思いますね。

(但し、伊都國から邪馬台国までの距離を記述したとすると水行で10日又は陸行で一月となると話は別になります!伊都國から投馬國までの半分は水行10日大分県にその名も中津(市)があります) 

 

邪馬台国は不彌國伊都國起点でも同じから約1300里(約100km)のところにあった!と記述されているのですから、畿内(奈良県?)なんて残念ながら有りえません!

 

基準となる距離は対馬國から一大國までの距離から3割増しまでの距離としますと

 

対馬から壱岐まで約75km=千余里ですから、3割増しは97.5km以下で邪馬台国!

伊都國までしか実際に行かなかったとしても約1,500里以下=112.5km以下!

 

邪馬台国は不彌國や伊都國から約100km圏内にあったになりますよね。

(奴國までの距離を入れても入れなくとも大差無い)

 

これは動かせない絶対的基準なのですが、勝手に水行20日陸行一月も掛かるとは!自分勝手な解釈以外の何物でも無いのにね~(大笑い)

勝手に解釈する人は、魏志倭人伝自体が信用してないのも同じなのに!

 

福岡付近が伊都國であった事には、九州説畿内説とも、皆様異論が無いようなので、福岡を起点に100km付近の南から東の間を探索してみては如何でしょう?

 

この間しか邪馬台国は存在していません! 

(東南が東に近い方位、私の感覚では東より東南の間はすべて東南で、南とは東南から南までの間の方位全てを記述しているのではないかと?)

天草も長崎も範囲外になります。

↑福岡から半径100km以内に!黄色い線が100km!(直線距離で70~85kmではないでしょう?)

実際の道のりは直線では無いので1500里=112.5kmも範囲内に!

 

山門郡もぎりぎり入りますね!記紀に登場する山門!秘匿された何かが臭いませんか?

 

邪馬台国畿内説を唱える学者さんがいること自体信じられませんよね。

どうして残り1300余里で畿内までたどり着けるんでしょうね(大笑い)

四則演算が出来ない学者さんには、小学校で算数の再学習が必要かもね(大笑い)

 

           **  探索  ** 

 例えばちょっと近いですが日田市!卑弥呼の墓らしき大きさの墳墓が!おまけに中津市との間に耶馬渓もあります。(耶馬渓は後から付けられたとの話・なんで邪馬なのか釈然としませんが)

拡大↓

 

以死大作冢徑百餘歩=半径100歩の”冢”を作る 円墳!↑の写真は日田市の丸山(月隅山)、戦国時代城に改造されたがまぎれも無い円墳!(私の最有力候補)

 

例えば熊本北熊本サービスエリア傍の弁天山と二塚山、合志塚も有ります!一緒の時代ならひょっとして!距離も直線ならぴったしなんですがちょっと遠いかな!

 

貴方も福岡から60~100km圏内の円墳らしき岡を探索してみてはいかがですか。

世紀の大発見になるやも知れませんよ!(笑)意外と無いのに唖然となさるかも!

 

とにかくヒントは魏志倭人伝に!伊都国と邪馬台国を結んだ後方は峻嶮な山か海!

邪馬台国の統治範囲は北から北西の間です。

宇佐や大分、別府には円墳が見当たりませんでした。

卑弥呼の後を継いだのは台与とよ)!豊の国の始まりだと思いません!

豊の国の中心こそ邪馬台国なのでは無いでしょうか?

 

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