使節団の行程を学説に従来の惑わされて、邪馬台国の最有力候補地を、日田市に比定しましたが・・・・・
肝心要の要件を満たしていませんでした!
いや~実に馬鹿な結果を述べたものです!大変失礼しました!(大反省)
日田市も盆地で防御しやすい地形と良質な材木の産地として権力者の所在地として繁栄した事は間違いない事実ですが・・・・!
昔読んだ高木彬光作「邪馬台国の秘密」でも書かれていましたが、私同様、殆どの人が伊都国は確定していて動かせないと思ってたんですね!(苦笑)
最初から方位を無視!これじゃ辿り着ける筈が無かったといって過言ではないでしょう!
【卑弥呼】とは、卑は蛮族として卑しめた当て字なので、本来なら【火】=古来からの【火の国】の【火】なんでしょう!【弥」は【広く.あまねく】、【呼】は呼ばれるですから当て字としてはそれほど間違っていないのかもね!
多分【火御子】=【火の国】を治める神の子・皇女!
日田市は、豊国!残念ながら【火の国】ではなかったんですね~!
距離に拘って、肝心要の要件を最初から度外視してたとは・・・・・・自分の馬鹿さ加減に唖然!
日田市は、”復立卑弥呼宗女壹與年十三為王復立卑弥呼宗女壹與年十三為王”で即位した【壹與】の邪馬台国としての都であっったとしても・・・・
卑弥呼の邪馬台国は、【火の国】にしか存在しなかったんだから!
赤が【火の国】!
日本国も、火の国が源流で⇒肥⇒日へと変化したのかも・・・・
まずは予備知識のお浚いから・・・・・
倭人在帶方東南大海之中 依山㠀爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
從郡至倭 循海岸水行 歷韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
始度一海千餘里 至對馬國 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險 多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴
又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴
又渡一海千餘里 至末廬國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沈没取之
東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚 有千餘戸 丗有王
【皆統屬女王國 郡使往來常所駐
東南至奴國百里 官曰兕馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸
東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家
南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸】
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 次有已百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有爲吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡
其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里
男子無大小 皆黥面文身 自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫 夏后少康之子 封於會稽 斷髪文身 以避蛟龍之害 今倭水人好沈没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以爲飾 諸國文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差
計其道里 當在會稽東冶之東
其風俗不淫 男子皆露紒 以木緜招頭 其衣橫幅 但結束相連 略無縫 婦人被髪屈紒 作衣如單被 穿其中央 貫頭衣之 種禾稻 紵麻 蠶桑緝績 出細紵 縑 緜 其地無牛馬虎豹羊鵲 兵用矛 楯 木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與儋耳 朱崖同
倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣 有屋室 父母兄弟臥息異處 以朱丹塗其身體 如中國用粉也 食飲用籩豆 手食
其死 有棺無槨 封土作冢 始死停喪十餘曰 當時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飲酒 已葬 擧家詣水中澡浴 以如練沐
其行來渡海詣中國 恒使一人 不梳頭 不去蟣蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人 如喪人 名之爲持衰 若行者吉善 共顧其生口財物 若有疾病 遭暴害 便欲殺之 謂其持衰不謹
出真珠 青玉 其山有丹 其木有柟 杼 豫樟 楺 櫪 投橿 烏號 楓香 其竹 篠 簳桃支 有薑 橘 椒 蘘荷 不知以爲滋味 有獮猴 黒雉
其俗舉事行來 有所云爲 輒灼骨而卜 以占吉凶 先告所卜 其辭如令龜法 視火坼占兆
其會同坐起 父子男女無別 人性嗜酒〈魏略曰 其俗不知正歲四節 但計春耕秋收爲年紀〉見大人所敬 但搏手以當脆拝 其人壽考 或百年 或八九十年 其俗 國大人皆四五婦 下戸或二三婦 婦人不淫 不妒忌 不盗竊 少諍訟 其犯法 輕者没其妻子 重者滅其門戸及宗族 尊卑各有差序 足相臣服
收租賦 有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之 自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 王遣使詣京都 帶方郡 諸韓國 及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書 賜遣之物詣女王 不得差錯
下戸與大人相逢道路 逡巡入草 傳辭說事 或蹲或跪 兩手據地 爲之恭敬 對應聲曰噫 比如然諾
其國本亦以男子爲王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歷年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫壻 有男弟佐治國 自爲王以來 少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食 傳辭出入 居處宮室 樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衞
女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國 黒齒國 復在其東南 船行一年可至
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里
景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都
其年十二月 詔書報倭女王 曰
「制詔親魏倭王卑彌呼
帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米 次使都市牛利 奉汝所獻男生口四人 女生口六人 斑布二匹二𠀋 以到
汝所在踰遠 乃遣使貢獻 是汝之忠孝 我甚哀汝 今以汝爲親魏倭王 假金印紫綬 裝封付帶方太守假授 汝其綏撫種人 勉爲孝順
汝來使難升米 牛利渉遠 道路勤勞 今以難升米爲率善中郎將 牛利爲率善校尉 假銀印青綬 引見勞賜遣還
今以絳地交龍錦五匹〈臣松之以爲地應爲綈 漢文帝著皁衣謂之弋綈是也 此字不體 非魏朝之失 則傳寫者誤也〉絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺青五十匹 答汝所獻貢直 又特賜汝紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠 鉛丹各五十斤 皆裝封付難升米 牛利 還到録受 悉可以示汝國中人 使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也」
正始元年 太守弓遵遺建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國 拜假倭王 并齎詔賜金帛 錦 罽 刀 鏡 采物 倭王因使上表答謝恩詔
其四年 倭王復遺使大夫伊聲耆 掖邪狗等八人 上獻生口 倭錦 絳青縑 緜衣 帛布 丹木 𤝔 短弓矢 掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬
其六年 詔賜倭難升米黃幢 付郡假授
其八年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 說相攻擊狀 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喻壹與
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹
古来の距離測定は、意外と正確だった事が判って来ました!
皆、勝手に魏志倭人伝に記された方位を自分の都合良く解釈してますが・・・・
距離と方位を正しいとして、単純に魏志倭人伝を再考察してみたら、とんでもない結果が!
それでは、ご一緒に邪馬台国に行ってみましょう!
魏志倭人伝に書いてあります!自郡至女王國 萬二千餘里!
帯方群から卑弥呼の邪馬台国までの距離が!924km+(短里・1里=77m)
郡よりその北岸狗邪韓國に至る七千余里
12,000余里-7,000余里=5,000里
始めて一海を渡ること千余里、対馬國に至る
5,000里-1,000余里=(3,950里~4,000里)
又南に一海を渡ること千余里、.....一大國に至る
(3,950里~4,000里)-1,000余里=(2,850里~2,950里)
又一海を渡ること千余里、末盧國に至る
(2,800里~2,950里)-1,000里余里=(1,800里~1,900里)
東南のかた陸行五百里にして、伊都國に到る(到着の到を使用!ここまで来た事は文面から確実)
500里=38.5km!
東南に位置する丁度その場所で、後年大規模集落跡の【吉野ヶ里遺跡】が発見されました!
吉野ヶ里が【ヒミコの都】だったのかといえば、答えはノーです!
吉野ヶ里遺跡は、魏志倭人伝に書かれた末盧國からの記述にピタリ当て嵌まる【伊都国】なんですね!
大規模な環濠を巡らした軍事拠点の伊都国だった可能性が、99.9999%!
残り、(1,800里~1,900里)-500里=1,300里~1,400里(100.1km~107.8km)
東南のかた百里(約8km)にして奴國に至る
(陸行文が無いので紹介文では?との説もありますが、私もその説に同感!)
東行して百里にして不彌國(約8km)に至る
不彌國と見做されるところには・・・・筑後国一之宮・高良神社があります!
ここまで来たなら、邪馬台国まで残りは1,100里(84.7km)~1,200里(92.4km)
南のかた投馬國に至る。水行二十日!←これが問題!
残り100km未満なのに、船で20日は掛かりませんよね!
しかも不彌國~邪馬台国の間に位置する事になっちゃいますから、もっと距離は近い!(大苦笑)
(畿内派の方は、行文があるので実際に行ったとの根拠にしてますがね)
私は【郡使】を置いていた国を記述したと解釈しました!
【皆統屬女王國 郡使往來常所駐
東南至奴國百里 官曰兕馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸
東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家
南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸】
皆がどこを指すかです!末盧國と伊都國の僅か末路国や2カ国と指している筈がありません!
以下の国も皆女王の国属して郡使いが行き来していると解釈すべきです!
後述で、”伊都国には特別に【一大率】を置いていた”と書かれているので、【率】を配置していた地区を記述したんでしょう!
穀倉地帯奴國を伊都国と不彌國に兵を置き強固に重要な穀倉地帯を守っていたんじゃないでしょうか?
よって、伊都国から、直接邪馬台国へ向かった考えました!
南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。.......七萬余戸有り。女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の某國は遠絶にして得て詳らかにすべからず。
(北は女王国に統属されていたが、その他は遠く詳しい情報が無いと書いていますね!ということは邪馬台国の南も東も山岳地帯か海ということです!)
次に斯馬國有り。次に己百支國有り。次に伊邪國有り。次に郡支國有り。次に彌奴國有り。次に好古都國有り。次に不呼國有り。次に姐奴國有り。次に対蘇國あり。次に蘇奴國有り。次に呼邑國有り。次に華奴蘇奴國有り。次に鬼國有り。次に為吾國有り。次に鬼奴國有り。次に邪馬國有り。 次に躬臣國有り。次に巴利國有り。次に支惟國有り。次に烏奴國有り。次に奴國有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。
その南に狗奴國有り。男子を王となす。その官に狗古智卑狗有り。女王に属せず。郡より女王國に至ること萬二千余里。
残り約1300里に水行10日陸行一月も掛かるのでしょうかね?この日数の解釈は常識的に全行程でこれだけ掛かったと解釈すべきですよ!
まして投馬國までの水行20日をプラスしたらわずか1300里(約100km)を水行十日陸行一月も掛かる事に!無茶苦茶なでっちあげですよ!年金の試算並み!(大笑い)
邪馬台国=女王の都は伊都國から約100kmにあった!
これは動かせない絶対的基準なのですから、
水行20日、陸行一月は帯方郡から1万2千余里の日程=解釈すべきでしょう!
自分勝手な解釈以外の何物でも無いのにね~(大笑い)
勝手に解釈する人は、魏志倭人伝自体を信用してないのも同じでしょ!
もう一つのキーワードは【ヒミコ】!
九州西北部は、古来【火の国】と呼ばれて来ました!火の国の女王なので【ヒ・ミ・コ】!
単純に考えれば、邪馬台国は赤く塗られた【火の国】中に有った訳で!
邪馬台国が畿内なら、末廬國から伊都國まで田舎を陸行する必要が全くありません!
畿内へは船で移動する筈で、畿内説は最初から破綻しているのです!(大爆笑)
あまりに単純・明解過ぎて・・・・
そもそも、なぜ最初から伊都国と比定された博多湾に上陸しないでわざわざ離れた末盧國にしたのか?
長年不思議には思っていたのですが・・
私も、素人なので従来の定説となった伊都国を福岡付近に想定した学者さんの説を信じていたので・・・・
今の日田市を最有力候補に挙げてきたのですが、全く見当違いでしたね!(苦笑)
私同様、学者さん達も従来の初期行程に惑わされて、見落として来たんでしょうね!(大苦笑)
使節団は【火の国】内の港に到着し【火の国】内を移動したと考えるのが自然です!
しかし、そうなると・・・・
【火の国】は後年、肥前肥後に
分割される訳ですが、火の国の人口を支えていた筑紫平野の【肥中】はなぜ無くなったのか?
肥前国の東端で筑紫平野の北端に発見された【吉野ヶ里遺跡】=伊都国は歴史上から姿を消していました!
【肥中】は筑紫国に変貌したと考えるのが自然です!
自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國
吉野ヶ里遺跡は当時の【火の国】北部の統治を任されていた一大率の居城・伊都国だったのでしょう!
東南至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸
東南にわずか百里(7.7km)に位置した奴国は有二萬餘戸ですから、規模は伊都国の比では有りません!
東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家
筑紫平野全体の穀倉地帯は、伊都国が支配し奴国を中心に小国=村々に分けられていたみたいですね!
日本書紀には、筑紫の君と呼ばれた磐井氏が卑弥呼の死後250年後に乱を起したと記されていますから、磐井氏が筑紫平野の小国を統一して【火の国】から独立したと考えると、【火中】が【肥中】として存在しないのも納得出来ますね!
邪馬台国の主力が、近畿地方に移って、手薄になったが故に・・・・・・
磐井氏が伊都国の一大卒の末裔だったのか?それとも磐井氏が伊都国を滅ぼしたのか?
タイムマシンで検証でもしない限り判明しませんが、いずれにしても豊かな【肥中】は邪馬台国から離脱したんでしょう!
伊都国=吉野ヶ里から南に1,300里(100.1km)~1,400里(107.8km)間の【火の国】のどこかに【ヒミコの都】があったことになります!
東南と記述されていたなら、距離的にも神話の街・高千穂が真っ先に候補地に挙げられるんですが!
高千穂をヒミコの都=高天原とすると、神話との整合性も出てきます。
ヒミコは弟に行政を任せて象徴的存在=天皇制でしたし、熊本付近に行政府が置かれていたなら天照の弟・スサノオが高天原に会いに行く記述とも符合しますし・・・・・・・
【火の国】の由来は雲仙普賢岳・阿蘇・霧島・・・・と大きな火山を有していたからで、当然地震も多く
地鎮と統治の為に建てられた【火の国】の社を模して倭国中の断層近くに神社が建てられた・・・・・・
この神社体制の中枢がカリスマ・ヒミコだったなら、遠隔地に都を置いても統治出来た可能性もあります。
日本の神話は、事実を記述していたのかも・・・・・・って事で万々歳なのですが・・・・・
高千穂では、7万個の家屋が建てられる場所が・・・・・第一に方位も合いません!
伊都国から、方位、距離から当て嵌めると・・・・八代市(町)が最大候補地に浮上します!
不彌國からの1,100里(84.7km)~1,200里(92.4km)では更に合致しますけど・・・・・・
調べると衝撃的な伝承が・・・・・・・
そもそも”八代”の地名由来は、”やしろ=社”だったんだってさ!
天照大神の社(やしろ)がこの地に在ったのが由来とされていた!
なんだよ、最初から邪馬台国の答えが出てたんじゃないですか!
【中の城古墳】は真北も向いていて鬼道を使い神格化された卑弥呼の墓に大きさも相応しいのですが・・前方後円墳なので、後々大和政権誕生後に新たに造られたんじゃないのかな~
八代市山麓にあるこの古墳みたいのが、最初のヒミコの墓だったりして?
3世紀じゃ、まだ円墳だと思うのですが・・・・・
墓はいずれにせよ、【八代】が魏志倭人伝に記された【邪馬台国】だったと断言出来ますね!
”灯台もと暗し”じゃん!伝承を大事にしないなんて!まさに【コロンブスの卵】!(爆笑)
なんでこんな簡単明瞭な事が、大きな大論争になったのでしょう?
男子無大小 皆黥面文身 自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫 夏后少康之子封於會稽 斷髪文身 以避蛟龍之害 今 倭水人好沉没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽
邪馬台国は、顔面に刺青をし新鮮な魚を好んでと・・海に近い記述とも合致します!
(大河の可能性もありますが)
古来より怪火とされた不知火も、鬼道で人を惑わすヒミコのイメージに沿いますし・・・
湧水で名高い水島もあって!
日本の輸送手段の主力は、明治まで水運!繁栄するには近くに良港が必須なのは言うまでもありません!
八代地方には、【火の国】の支配圏だった天草諸島との連絡港として栄えた天然の良港でのもある三角港もある!
物資を船で運ぶのが主流であった古代【火の国】全体の都として、旧八代町をもっと発掘調査する必要があるのでは?
直接、使節団が船で訪れなかったのは、船旅のリスクを軽減するのと、火の国の内情を実際に見聞したかったからなんでしょう!
江戸時代に干潟を大規模に埋め立てたので、遺跡も破壊されてしまった可能性も大ですが!
なぜ候補地から早々に除外されたのか・・・古事記(では熊曾)や日本書紀で球磨(くま)川流域の熊襲が最後まで大和朝廷に従わなかった蛮族みたいに書かれたからでしょうか?
熊襲の名の元になった球磨(くま)川は八代市地方の南が河口です!
神話に描かれた熊襲は、球磨(くま)川上流の人吉盆地=球磨(くま)郡を中心に勢力を持ち続けていた勇猛果敢な部族だとされ八代とは関係が無い筈なのに・・・・
実際は政権が奈良盆地に移ったあと、熊襲が旧天都を支配下にいれ、海外貿易と材木で大和朝廷の意も返さぬ程の隠然たる勢力を維持していたんでしょうけど・・・・・熊襲に故郷を奪われたとは書けませんわな!
藤原家が改竄した日本神話では、八代に全く触れず、高千穂が天都で宮崎が天皇家の発祥の地にされちゃいましたからね!
ほとんどの探求者が、八代地方を熊襲と勘違いして候補から度外視しちゃったんでしょうね!
【邪馬台国の都】が【八代】だったと比定し得る根拠がもう一つあります!
それは伊勢神宮との関連です!
八代市は、中央構造線上にあります!
伊勢神宮の外宮さんも中央構造線の真上!
伊勢神宮・外宮は、日本の屋台骨・中央構造線の活動を鎮める、日本の最重要鎮守の社(やしろ)!
世界最大級の活火山・阿蘇山を背後に、当時、八代地方にあった社は中央構造線上にあって、卑弥呼の霊力を最大に発揮出来るパワースポットだったんでしょう!
古来からの神社ってほぼ断層上にあるワースポットなんで、自分に合った波長の神社にお参りすれば、ご利益(りやく)絶対受けられる筈!
古代の都だった飛鳥も中央構造線の直ぐ傍にあるんですよ!
伊勢神宮の祭司は天皇の皇女でしたし・・・・日本列島を鎮め事が、卑弥呼以来受け継いでいた天皇家最優先の伝統なんでしょうかね!
西郷(せご)どんも最終回が近づいて来ました!最後を遂げた西南戦争の最大激戦地”越すに越されぬ田原坂”も、古来から伊都国と都・邪馬台国を結ぶ街道の要所だったんでしょう!
熊本から八代までなら七萬戸は十分有りえますし・・・・・・・
邪馬台国は【火の国】熊本県八代=社にあったって事ですよ!
肝心な宮殿跡は?
さらに・・・・もう一つ
円の中を流れる川は”氷川”です!”氷川”と言えば須佐之男命を祀る氷川神社が有名ですが、氷川の由来がいまいちはっきりしていません!出雲大社の斐伊川なんて事になってますが・・・・・・・
名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫壻 有男弟佐治國
八代が邪馬台国の都で、ここで卑弥呼の弟が政務を執っていたとするなら・・・なにせ、目の前が氷川です!
須佐も補佐の訛りなのかも?
当然、氷川の洪水・氾濫も抑えたでしょうし、南の日本三大急流・球磨川の河口を整備し、肥沃な干潟として河川の治水工事に卓越した手腕を発揮したが故に、天照大神の弟・須佐之男命が治水の神として祀られ、須佐之男命を祀る神社に【氷川】の名が付いたといえるのではないでしょうか!
卑弥呼は高齢と記述されているので、弟もかなり歳を取っていたんでしょうね!
更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定
弟が継いだならまだしも・・・新しい王を立てたんでしょう!
八代がいかにパワースポットといえ火の国の中心部ではありませんから、【肥中】磐井へ遷都もしたのかもね!
政務から離れた、弟・須佐之男命は、治水工事のエキスパートとして出雲・斐伊川の治水に貢献?
南の球磨川河口デルタ地帯の八代市宮地も中央構造線に近いので有力な候補ですが・・・・・
宮殿のロケーション的にもこちらが最有力候補でしょう!
しかし、九州横断道路工事でも全く考慮されることもなかったんだろうし・・・・
度重なる大地震で痕跡も壊滅してしまった可能性があるので、検証は大規模じゃないと無理かも知れませんね!
発見して大富豪に成れるなら、シュリーマンみたいに掘り下げるんだけど・・・・・日本じゃ名声だけだし!
余談ですが・・・・
八代地方の名産のい草は、畳表のシェア9割を誇った日本文化に無くてはならない特産品でもありました!
八代地方は、神社や権力者と長きに渡って関係があったって事です!
邪馬台国が【い草】を通じて統治していたとは言い過ぎですが、畳は当時の高級品であり、茣蓙も含めて一種の厄除けの御利益があると信じられていた可能性もあります!
2016年の熊本地震の時に、邪馬台国=八代町に気が付かなかったのは、完全に思い込み!
視野の狭い学者さんの説を信じてしまうなんて・・・・
邪馬台国論証に終止符が打たれれば喜ばしい事ですが、学者さんて素人の説なんて絶対に認めないからね~!(大嘲笑)
宮崎康平氏の【まぼろしの邪馬台国】も、読ませて頂きましたが、方位的距離的に合致しないので惜しかったですね!
祝詞には
”豊葦原の水穂の国を 安国と平けく所知食と事依し奉き・・・・”とあります!
祝詞は、禍いを払い平穏を祈願するのが基本ですから、卑弥呼が神道の原型を造ったのかも知れませんね!
神道にはお神酒が付き物!祈願祭の後には必ず参列者全員に盃の御神酒が振舞われます!
魏志倭人伝の記述にも、父子男女無別 人性嗜酒とありますから邪馬台国では大量の酒が造られていたんでしょうね!
酒は少量なら”百薬の長ですから”・・・・祭を行う度に美味い酒を振舞っていたのかも・・・・(笑)
い草と違って、茎も硬く成長も早いイネ科の【葦】が日本中をの水辺を覆っていたのに、なぜ八代地方だけ?
卑弥呼時代に全国への供給体制が出来上がっていたんでしょうか?
中国からの邪馬台国への貢物だったのか?韓国経由で渡来人が持ってきたのか?
昭和の時代まで、日本家屋の要だったんですから・・・・・・・
後継台与の時代に、都が八代から葦の茂る豊国に移ったんでしょうか?
神話の東征で、近江の豊葦原が歴史の表舞台になり・・・・・・・・
度重なる大地震で、八代にあった社(やしろ)も忌み嫌われ・・・権力からも疎遠になり【い草】だけを残して太古の栄光も忘れ去られたのかも・・・・・・・
邪馬台の名も、天(あま)社(と)が、訛って記された可能性もあるんじゃないのかな~?
天都(あまと)だったのかも!
後に高天原の天照大神(あまてらす)に祭り上げられるのも”あま”が”天”を表意してたんだし・・・・
”あま”は”海女・海人”も意味する!
伊勢神宮近くの伊勢志摩の海に潜る海女は有名でした!
日本は四方を海に接している!女性が高収入を得られた海女を育成していたとすると・・・・
【火の国】のもう一つの顔が見えてきます!海洋族として大海原を自由に航行していたからこそ九州の西部全体を掌握出来たのかも!
八代市で何らかの痕跡が発見されれば一気に解決するけど・・・・・・・・
何事もSIMPLE・IS・BESTじゃ~ないの!事実は小説より奇なり!
これで邪馬台国論争に終止符が打たれた・・・・・めでたし、めでたし!と思いきや・・・・・・・
残念なことに、自画自賛するこの説には大きな欠点が在るんですね!
間違いなく邪馬台国は八代市だったと確信しているのですが・・・・・
それは従来説の松浦郡唐津付近を上陸地点としている為、一大國と末廬國との距離が曲線を描いても約55km=800里と短すぎて合致しません!
従来説が、いい加減過ぎてるからですが・・・・・
八代市を邪馬台国と比定した上で、上陸地点を再度検証してみましょう!
末廬國が異なると当然伊都国も異なることに!
③に続く・・・・・
そういえば、西郷どんを見てて思ったのは、坂本竜馬を暗殺した黒幕は、大久保利通だったのかも!
自分の考える大儀の為なら、友も非情に切り捨てる!
”ボウズヲシサツセヨ”の電報で、竜馬暗殺の黒幕が大久保利通だと気が付いたんじゃないかな~!
船中八策で徳川家を残し穏便な変革を求める、非凡な才能の竜馬は大久保にとっては最大の障壁だった!
西郷も同じで立場に追い込んでしまった!
邪魔者は消せ!一番の親友に裏切られた”せごどん”の心中は・・・・・・・
明智光秀に裏切られた織田信長の心中か?
侍の象徴となった西郷にとって、自分の存在が早急に侍を無くす大久保利通の改革の最大の障壁だと悟ったんでしょうね!是非に及ばず!
陸軍大将として、装備の差を知り尽くしていた上での出兵でした!
西郷の死から1年後、暗殺された大久保利通の懐には西郷からの手紙が2通!
一緒に改革の夢を追った唯一のそして最大の理解者の形見として肌身離さず・・・・・