生前退位の最初は?
乙巳の変=【大化の改新】の後、皇極天皇(女帝)が弟の孝徳天皇に譲位したのが最初!
大化の改新(645年)中臣の鎌足主導のクーデターだったとされています!
このクーデター謎だらけ!
なんで大豪族でもなく権力も無い中臣クラスが時の権力者を暗殺しなければならなかったのか?
何故
中大兄皇子は次男坊なのに長男を差し置いて主役を演じる事が出来たのか?

律令整備の手柄は全部独り占め?律令整備の実績は【入鹿?】だった可能性も・・・・・・

クーデーター後、急激な改革をしようとした【入鹿?】が亡き者にされたのに内戦にならなかったのも、当貴族社会で大和建国以来、百済連携を重んじていたからなのかもしれませんね!
しかし、日本人であれば謀略で殺めたとすると怨霊として祟ると信じられていた時代、歴史を偽り呪詛したくらいじゃ穢れは取れません!
鎮魂の為に大規模な神社か仏閣が建てられた筈ですよ!
しかし、日本書紀にも古事記にもその様な記載は有りません!
となると・・・・・聖徳太子一族を入鹿が殺した事にされたてますが、
法隆寺は道半ばで暗殺された【入鹿?】の鎮魂寺なのではないのか?
聖徳太子は実在せず実際は【入鹿?】だったのではないのか?年代も変えてね!
聖徳太子
一方では悪者扱いで呪詛しながら、一方では希代の天才として褒め称え正式な記録に実績を残したと考えると辻褄が合います!
厩戸皇子だってキリスト誕生の逸話と同じだし、【聖徳太子】は【入鹿?】鎮魂の為に考え出された記紀の創作でしょう!(笑)

日本最初の生前譲位されたのは、鎌足に唆されて実行犯となった皇極天皇の息子・中大兄皇子(19)ではなく、夫舒明天皇の弟でした。
”韓人・が殺した”と叫んだ=犯人は日本書紀に韓国出身だと明確に書いてある!(大苦笑)
こう明(あか)ら様に書いたんじゃ、まさか藤原家の祖が韓国出身とは思わないからね!
千年以上繁栄の極みを謳歌した藤原家の生みの親・・・・・中臣の鎌足私は百済系だと思ってるんですが・・・・この時滅亡させた【蘇我蝦夷?】・【入鹿?】親子を【日本書記】で悪者に仕立てていますが・・・・
鎌足が【入鹿?】を暗殺し、【蝦夷?】を自害に追い込んだのは、【入鹿?】が百済を見限り唐や新羅と等距離外交を行っていたからではないのか?
百済と日本の結びつきは人質として百済の王子【扶余豊璋】が日本に来ていたんだし、百済出身者にとって弱体化する百済を軽んじる【入鹿?】の外交姿勢は許せなかったのではないでしょうか?

蘇我氏は、渡来者集団を統括し、一大豪族として君臨していたとされていますが・・・・・渡来者の大部分は百済出身の筈!中臣の鎌足が再び百済偏重政策で彼らの頭になったとしたら・・・・・公共事業で彼らを優遇した筈なので・・・・・・・・・

そもそも時の権力者が、稲目・蝦夷だの馬子や入鹿なんて名前を付ける筈がないのです!
稲目=我、蘇(よみがえ)りしは・・・稲の穂先に?冗談だよね!
馬子=我、蘇(よみがえ)りしは・・・馬から生まれるって?馬鹿っじゃね~の!
蝦夷=我、蘇(よみがえ)りしは・・・蛮族に?冗談だよね!
入鹿=我、蘇(よみがえ)りしは・・・鹿と獣姦する変態だって!
藤原家が、日本書紀で歴史を改竄し彼らを呪詛したんですよ!蘇我(われよみがえり)を逆手に取って!

蘇我氏とされた一族は、継体天皇(503~7?~531?)以降政治中枢の権力を握ります。
継体天皇には、即位前に大和皇族以外と子女をもうけていたそうな!
蘇我氏は即位前の息子達だったのか?
継体天皇は即位前、越前~琵琶湖~宇治川の一手に水運を握り相当の財力を蓄えていたんでしょうね!
【蘇我稲目】とされた人物も、皇位継承前に継体天皇の一族だったと考えて良いのではないでしょうか!

継体天皇は応神天皇の末裔ですから、応神時代に権勢を誇り天皇家と姻戚関係にあった葛城氏が蘇(よみがえ)ったとして蘇我氏と名乗った可能性もありますが・・・・
正に、蘇我氏は応神朝での葛城氏全盛時代以上の姻戚関係を築き比類なき権勢を誇った訳で・・・・・・中大兄皇子の別名が葛城皇子だったって?意味深ですよね!多分葛城の地で乳母に育てられたんでしょうか?天皇家は成人まで親元以外で育てられていたから・・・・

今CSの【チャンネル銀河】で武則天をやってますね!

天皇・天后を最初に呼称させた史上稀な才色兼備の女傑です!
遣唐使が【天皇】の尊称を持ち帰り、それまでの日本の大王(おおきみ・すめらみこと)を、日本書紀以降◎◎【天皇】(し、おくりな)する事になるのですが・・・・・神武から元正までの【天皇】という漢風諡号は淡海三船(722~785)が考え出したとされているので、天皇】と諡(おくり名)される様になったのは聖武天皇時代からなんですね!
つまり日本書紀完成時には、日本に【天皇】は存在せず、平安京に遷都するまでは、大君(オオキミ)・神皇(スメラミコト)であり帝(ミカド)だった!
奇書・竹内文書も神皇【スメラミコト】にしていれば偽書とは言われなかったでしょうに!(苦笑)

日本書記のどこまでが真実でどこまでが創作なのか・・・・・・・・
日本書記には、神の名の天皇が3人登場します。
神武=神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)
崇神御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)
応神誉田別尊(ほむたわけのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと)、大鞆和気命(おおともわけのみこと!
単純に考えれば、神武・崇神・応神の3天皇は同一人物なんでしょう!
応神天皇の母・神功皇后気長足姫尊(息長帯比売命=おきながたらしひめのみこと)を含めれば4人です。
神功皇后の母は葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)です。
葛城の地が応神朝天皇家に大きく関わっているんですね!

日本書紀・古事記は藤原家に都合の良いように改竄されているので悪役は善人として読み解かなければなりません・・・・・
神武天皇の紀元前660年即位は日本書記の創作ですが、神武(崇神・応神)天皇とされる東征は事実でしょう!

神武天皇の前に大和を統治していたのは・・・アマテラス(天孫)系のニギハヤヒ天照国照彦天火明櫛玉壌速日尊)です!出雲に国替えされた前王朝!
朝鮮半島南端には任那(~562年)がありました!
任那
任那は【魏志倭人伝】の狗邪韓國なんでしょうね!
戦後の韓国大統領の出身地を見ると親日派は全て旧任那!
李 承晩
(り・しょうばん)高句麗(開城近郊)没落両班(ヤンバン)出身、臨時政府、対日強行派
(ユン・ボソン)旧百済(牙山)出身、臨時政府!
朴槿恵パク・クネ)大統領の父朴正煕(パク・チョンヒ)の生まれは旧任那(亀尾)貧農出身、陸軍士官学校卒!
崔圭夏(チェ・ギュハ)旧新羅(江原道原州邑)両班(ヤンバン)出身

全斗煥(チョン・ドゥファン)は旧任那(陜川)出身!韓国軍出身、”日本に学べ”とまともな歴史認識だった!
盧泰愚(ノ・テウ)旧任那大邱)・旧新羅国境出身!
韓国軍出身
金 泳三
(キム・ヨンサム)は旧任那(巨済島)出身!対日強硬姿勢でしたが日本人の友人多数!
金大中(キム・デジュン)生まれは旧任那・百済(荷衣島)本家は旧任那加羅(金官伽耶)出身、親日家でした!
盧武鉉(ノ・ムヒョン)も旧任那・加羅(進永邑)貧農出身、小泉首相の靖国参拝で途中から対日強行路線に!
李明博(イ・ミョンバク)は、旧新羅浦項出身の父母から大坂夏の陣の家康本陣だった大阪府中河内郡加美村生まれ、対日強硬派!

崇神天皇は
任那の城から来たとも解釈出来ます!いずれにしても応神天皇時に北九州+任那軍が畿内に攻め込み葛城地区日の本日下が日本の首都があになったのではないでしょうか?
天皇の別名は帝(ミカド)・・・・・ユダヤの【失われた10氏族】の【カド族】=イザヤの末裔が日本に来たって荒唐無稽の話を証明するのが私のライフワークになってます!

http://www.page.sannet.ne.jp/kbkk/
途中書きかけのまま、もう12年以上更新していませんが・・・・・・【光陰矢のごとし】ですね!

新羅が百済を滅ぼし朝鮮半島を統一しましたが、660年に滅ぼされた百済復興を目指して663年日本が韓国に攻め入りましたが、朝鮮戦争同様、中国の援軍で【白村江の戦い】で破れ、百済が復興出来なかった時の唐の皇后!

武則天(624年~702年)が才人として唐の後宮に入り中国最初で最後の女帝になった頃、日本も藤原家の開祖・鎌足が陰謀を廻らし藤原家を公家筆頭として日本国を牛耳るまでのサクセスストーリーが展開した時代でもありました!
武則天は愚鈍な三代目高宗を篭絡し、武一族で専制を敷きましたが、中臣の鎌足も中大兄皇子を操っていたのでしょうね!
高句麗
武則天668年新羅と連携して高句麗を滅ぼすのですが、高句麗の都は平壌(ピョウヤン)と国内城(中国・集安市)
現在の朝鮮半島の対立は、北朝鮮=高句麗、韓国=新羅・百済って訳!滅亡した百済だけじゃなく高句麗からの難民も日本に来ています!
高麗神社参照!
畿内は百済系帰化人が多かったので、武蔵野国に新しく開拓民として高句麗難民を受け入れたんでしょう!
戦後、数十万人の済州島出資者等を日本に残したのも昔の百済・任那の末裔だったからなのかもね!(大苦笑)
当然武蔵野国高麗郡は美人の産地でも有った訳で・・・・・
そんな訳で武則天(則天武后)【日本史最大の謎=大化の改新】と大いなる関係が有るんですわ!

では、なぜ藤原家は蘇我氏は呪詛してまで、歴史上から消されなければならなかったのでしょう?

閑話休題
応神天皇以前の日本史は・・・・希書・竹内文書によればウキヤ王朝があったとされてますが・・・
ギザのピラミッドを経度ゼロにすると・・・・・

Google earthでさっそく調べてみたら・・・・経度の表示を度分(10進法)にするとギゼーの大ピラミッドの頂上は
東経31.08074≒31度8.0
都城市高城も東経100度(131度.81)、安土城は東経105度(136度8.3)!!(驚!)
日本のエルサレム・ソロモンの神殿を模した守屋山山麓の諏訪大社前宮は107度(138度8.0)に位置します!
なんと【日本中央】の碑はドンピシャの東経110度(131度8.0)にあるんですよ!(驚愕!)

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東北は蝦夷ではなかった?
東北の古代文明はもっと探求すべきなのかも・・・・・十和田大噴火で地下に眠っているんでしょうけど発掘されたらポンペイの遺跡どころじゃないかもね!
皆様も調べてみたら・・・・・・意外な結果に唖然としますよ!
超古代文書として、明治以降に見つかったとされる竹内文書や宮下文書、東日流外三郡誌などがあります。
偽書とされていますが・・・・・日本書紀も偽書みたいな物なんだから目くじら立てなくても・・・・・・・小説として読む価値は大いにありますよね!(大爆笑)

それはさておき・・・・・・本題に戻ると
中大兄皇子が継体天皇の地盤に遷都した大津京で【天智天皇】として即位するのは、
白村江の戦い】後の668年!大化の改新(645年)からなんと23年後の高句麗が滅亡した年です!
別の言い方をするなら、高句麗が滅亡するまで即位出来なかったって事ですよ!
これが謎解きの鍵なのかも?しかも治世はわずか4年!
皇極・斎明天皇は中大兄皇子の母ですから、民に苦役を課した大規模土木工事も朝鮮出兵を前提に全て中臣鎌足が企画したんでしょうね!
いつの世にも巨大土木工事は巨万の富を手に入れる事が出来ますよね!(苦笑)
この23年間に、
中臣鎌足は中大兄皇子を操って着々と磐石な藤原家の基礎を築いたんでしょう!
天智天皇崩御後、壬申の乱を経て天武天皇が即位し仏教を普及させるのですが、中臣鎌足が神道を守る為に起こしたクーデターだったら藤原家は天武天皇時代に没落し、千年以上も続く繁栄は出来なかった
中臣の鎌足は、【白村江の戦い】以降行方不明になった大和の人質だった百済の王子・豊璋だったとの説もあります!新羅との関係を維持するには【白村江の戦い】の総大将を逃げ帰っても生きてる事には出来なかったからね!
大化の改新から日本書紀成立までの時代は、徹底的に日本の歴史を改竄し【最大の謎】を生んだ時代だと言って過言では無いでしょう!
日本は、第2次大戦終戦まで、百済の末裔に牛耳されていた!朝鮮併合も義務教育も無く文盲も多い遅れていた朝鮮を百済末裔が日本を使って近代化を押し進めたのではないのか!
旧百済だった済州島の出身者が在日韓国人になったのも・・・・・・・